2 〜俺は嫁など欲しくない〜
ファングはこの数日、書類仕事に専念していた。
異母弟のレオンに
「兄さん、向こう5日は屋敷にいなよ。訓練禁止。巡視禁止」
と笑顔で制されたのだ。
何故なら先日、隣国との国境周辺にいる放浪民族“ネセンズ”の子どもに襲われ、脇腹と左腕にそこそこ深手の裂傷を負ったからだ。
奴らは異民族で、言葉が通じないのが難点だ。
「毒草食ってるのを無理やり取り上げようとして竹槍で抉られるとかさ。“血塗れのファング”の名が泣くよ?」
とレオンには呆れられた。
痛み止めの薬草を煮出した湯を毎日飲むよう継弟に言われたが
「これは吐剤か?」
ファングが思わず渋るほどの不味さである。
貴重な薬草を自分が消費するのも気が引けて、無治療のまま自宅療養中なのだ。
「一人、お抱えの治療師雇いなよ兄さん。屋敷、部屋余ってるんだしさ」
レオンは、時折痛みに呻く兄に諭すように言った。だがファングは渋い顔で答える。
「……すぐ裏に治癒師が居る」
屋敷の裏手には己の率いる軍隊,“県軍”の基地が広がっている。
そして敷地内の機関の一つ、“医療部”には10名ほどの治癒師が常駐しているのだ。
「じゃあいっそガッツリ完治させてもらって、治癒師にはしっかり休暇取らせて兄さんは早く復帰するとか」
レオンはため息混じりに返す。
治癒師の異能は、己の“気”を患部に充てることで、対象物の生命力,自己修復機能に働きかけ、怪我や病の回復を促進させるものだ。
無理やり“自己修復機能”を引き出すため、治される側の負担もある。
くわえて、治癒師自身の“気力”も術に用いる分、施術側の心身の消耗も大きい。
重傷を一度に治そうとすれば、治癒師も怪我人も、命が危うくなるほどに消耗するのだ。
レオンもそれは理解しているので、ファングを治癒師のもとへ強引に担ぎ込むことはしない。
「……彼らは、兵士たちの怪我を診るためにいる。俺に力を無駄使いさせて、いざという時に兵士を、ひいては領民を救えなかったら困るだろう」
領民思いで県軍の皆を私的利用したがらない兄に、レオンは苦笑する。
「兄さんは、……もっと自分のことも大事にしてよね」
レオンは、カウチに寝そべるファングの枕元にうず高く書類を積みながら言った。
「基礎訓練と視察は俺やるから、兄さんは書類とこっちの封書、処理して」
そうして屋敷内に軟禁されること丸5日。
レオンから、契約している武器商人との商談や街や村の様子の聞き取りの報告を受けながら、おとなしく事務処理を片付ける。
そんな折でも
「ファング様、森に魔狼の親子が」
軍の部下からも急ぎの報告が上がる。
「繁殖期か……近隣の村の警護を固め、襲撃してきたら容赦は要らん。だが森では追い払うだけで良い。母狼を刺激するなよ」
ファングは部下にそう伝えつつ、早く自分が戦闘復帰したほうがいいな、と思った。
だが、今日こそ前線に復帰と意気込んで、部屋で剣を振るっていたら、
腕の傷がまた開いてしまった。
レオンに包帯を替えてもらいながらファングは
「今日はヴォドエルの森に」
言いかけたところでレオンに
「だめ。今日一日、療養延長」
ぴしゃりと言い渡されたのが今朝のことである。
昼食を終えて少し経った頃。
「旦那さま。お取り込み中失礼いたします」
小間使いのミディが何かを差し出しつつ、おずおずと声をかけてきた。
「あのぅ……お客様お見えです」
来客の予定などなかったはずだが。
不審に思いつつ、ファングは差し出された手紙を受け取る。
それは、過日こちらからソノルズ公爵家へ送った婚約応諾の書面だ。
中には
【ビクセル・ソノルズ公爵は、その次女“ペンネ・ソノルズ”を
ファング・ウリャフト,ローヌルフ辺境伯へ降嫁させることとする
上記、この書簡を以て両家合意とす。日時等委細は別途協議とする】
そうしたためてある。
確かに此方から“嫁を迎えること”を応諾して、輿入れについてもつい先日諸々指定した。
先方からは、それに対して否の返事はなかった。
……あの条件を呑むとはな。本当に辿り着いてしまったか。しかも存外に早かった。
さすがは公爵家とでもいおうか。
「悪いが、王弟の娘に関心はない。血筋が色々面倒くさいのでね。嫁にする気は一切ないから引き取るように、……そう、供の者に伝えてくれ」
今までもいくつかあった縁談を、こうして断ってきたファングである。
そもそも、
“嫁に貰ってやるが、付き人など余人を来させるな、嫁が独りで勝手に来い。期日も定めない”
という一文を添えておけば
高慢な貴族たちは、こちらの横柄な態度に怒って縁談を白紙にするものだ。
独りでの5日間の馬車旅など温室育ちのご令嬢には過酷であまりに危険だ。
良識ある家なら、娘のためにも断ってくる。
今まではそうだった。
この縁談断り文句のせいで、
ローヌルフ辺境伯は貴族のしきたりも分からぬ愚か者、
という不名誉な評価が付いたのも知っている。
それでも、お陰で縁談自体減って助かった、とファングは思っていた。
尤も、数名、このファングの屋敷にたどり着いた婚約者も過去にはいた。
だが、彼女たちは皆、密かに供を連れ、実家の馬車で優雅に旅してこの領内へ来て、屋敷には女性ひとりで訪問する、なんて小技を弄していた。
ファングにしてみれば
むしろ、娘の身を案じてこっそり供をつけるぐらい、まともな貴族ならすると思っているのでお供を隠して来ていても別に怒らない。
だから今回もそうであろうと高を括って、
“供の者に伝えてくれ”
とファングは言ったのだが、
ミジィは困り顔になった。
「それが、本当に……御一人のようで。それも、……次女のペンネ様ではなく、長女のカリナ様のようで」
ファングはそれを聞いて急いで応接間へ出向いた。
婚約は家同士の契約。
それをこちらに何ら相談なく、勝手に別の女を差し向けたのか?
王弟殿下ともあろう者が。
それとも、何かしらの行き違いがあったのだろうか。
問い質さねばと勢いよく応接間へ踏み入ったファングは、
そこで座っているカリナを見て、呆然とした。
旅行鞄一つで埃塗れのキャリッジドレスに身を包み、俯いている。
いや、……こくん、こくんと揺れている。
どうやら寝かかっているらしい。
この娘が、ここへ来るまでにどれほどの心労と身体疲労に見舞われたのか、ひと目で分かる有り様だった。
「長旅ご苦労だった、……ペンネ嬢」
“婚約を交わした嬢”の名でファングがわざと呼ぶと、娘は弾かれたように起きた。
慌てて立ち上がり、
「お初お目にかかります、ローヌルフ伯爵様」
彼女は丁寧にお辞儀をする。
「……私、姉のカリナ・ソノルズと申します。あの、実は」
弁明をしようとするカリナを制し、ファングは、敢えて横柄に言った。
「俺は長女でなく次女を寄越せと伝えたはずだ」
カリナの黄みがかった青い目が見開かれる。
「……やはり私では」
何だかんだ言っても、
どうせなら、嫁にもらうのは“太陽と若葉”の娘が良かったのか。
カリナは胸が苦しくなった。
泣くまいと必死に唇を噛んで俯く。
「……諸々の話は後だ。まずは湯を使い、少し休みなさい。屋敷の主を待つ間にも船を漕ぐほど、疲れているんだろう」
ファングの苦笑混じりの言葉に、カリナは恥ずかしそうに身を縮こませた。
そして、彼女はそうっとファングを見上げた。
やってきた娘が約束の相手ではないことに不服そうではあるが、
カリナの銀髪を見ても、ファングはあからさまに不快な顔もしない。
カリナは少しほっとした。
自分を見るなり、
銀髪の気味の悪い者が来た!とか、
翠眼の娘でないことに落胆あるいは激昂するのではないか。
自分などすぐに屋敷から摘み出されるのではないか。
そんな不安を抱えていたのだ。
なにせ相手は血塗れのファング,獰猛で戦闘狂の軍人と聞いていたので。
その髪が深紅なのは、血を浴びすぎたせいという噂さえあった。
もっとも、屋敷の主人を起きて待つこともできない娘に今は呆れ返っているだけかもしれないが。
ファングが小間使いのハイディラを呼んだ。
「こちら、ビクセル王弟殿下のご息女、カリナ様だ。入浴の支度を」
そうして、カリナが有り難く風呂に入っている間。
温かくて胃に優しい料理を整えるよう使用人に言いつけると、ファングは部屋に戻って頭を抱えた。
執務室でクマみたいにうろうろ歩き回っているファングを、レオンは面白そうに見ていた。
「嫁が、来た……」
と、ファングはこの世の終わりみたいな顔で困っているのだ。
今までの婚約者たちには、
屋敷に着いた以上は持て成して
屋敷と職場である軍を軽く案内しようと外へ連れ出し、
魔獣や軍隊の訓練を見せて怖がらせて
こんな野蛮な土地に暮らすなんて無理!
と嫁に言わせてから、
こちらで馬車と旅費を用立てて帰してきた。
だけれども。
「侍女一人、ついて来ていないだと……?」
よくまぁ無事に生きてたどり着いてくれたとファングは思う。
北の郊外では野盗も野犬も出るし、このユジャム県内の南端にも稀だが魔獣が現れることがある。
命を落とす危険もあるなか、五体満足に来てくれて本当に良かった。
「しかも、違う娘が来たぞ? 長女を手放していいのか?
長女は家を継ぐのに要るだろう?
だから俺は次女で良いと言ったんだが」
すっかり困惑しているファングにレオンが口を挟む。
「次女のペンネ嬢といえば、金髪に翡翠の瞳で有名じゃん」
それを聞いて、ファングは合点がいったようにうなずいた。
「あぁ、王族にしか顕れんという“若葉”か。なるほど、その娘を俺のような男にくれてやるのが惜しいか。
それでも俺に娘を寄越すとは。
狙いは俺の領地の資源か?県軍の軍事力か?俺が王弟なんぞに尾を振るとでも?」
不敵に嗤うファング。
「……それとも銀髪がそんなに気に入らんのか。愚かな男だ」
ソノルズ公爵家といえば、王族の血筋だ。
現国王の弟にあたるビクセルと、その娘で双子の長女カリナと次女ペンネ。
ソノルズ公爵家から縁談の打診が来たときに、そもそも妙な話だ、とファングは思っていた。
ソノルズ公爵家から
“うちの【長女】を娶らないか”という話が舞い込んだのは、例の嫁単独輿入れ作戦が功を奏して縁談が減った矢先であった。
妙な内容である。
此方は、“長女であれば家の嗣子のはず。長子優先の慣習に従いお手元に残されよ”
と返したのだ。
そうしたら、
“分かった、では次女を嫁に出す”という旨の応答があった。
この、“王都では悪名高い”ローヌルフ辺境伯に縁談を持ちかけずとも、ソノルズ公爵家ならばむしろ引く手数多だろうに。
それでもファングとの婚姻関係を求めるということは。
他の家と同じくファングの武力と北の資源が欲しい、要は、実質的に領地の乗っ取りを企んでいるのだろう。
そういう打算的目的がないなら、
誰がわざわざ、魔獣が跋扈し異民族や隣国と常に睨み合っているこの土地に、大事な娘を住まわせるというのか。
貴族の婚姻は、家の関係強化と、跡取りを産ませることが主目的だ。
当該男女の感情、特に女性側の意思など踏みにじられるのが暗黙の了解であることはファングも知っている。
それでも、
……“血塗れのファング”,狂戦士伯爵などと呼ばれる男の妻になど、なりたい女性がいるものか。
自分のところに嫁ぐ女性が哀れだと思うのであった。
とはいえ、こちらは上の身分の家から嫁を頂戴する身。
真っ向から断っても角が立つ。
だから、ソノルズ公爵家に対しても恐れることなく、いつのも“無礼な条件”ー嫁1人で勝手に来いーをつけて、“次女を貰い受ける”と返したのに。
断られることを期待していたのに。
初めて、嫁が、本当に独りで来た。
ファングは動揺すると同時に、あの汚れきって疲弊したカリナが哀れだった。
ずっと王都で何不自由なく過ごしていたであろう令嬢が。
娘の旅立ちを何だと思っているんだ、ビクセルという男は。
ファングは憤り、カリナを今までのように突き返したところで、この娘は公爵家に居場所がないのではと案じた。
王都に銀髪の者はほとんどいないことをファングは知っている。
ハイディラやミジィのような孤児ならこの家で小間使いとして生活の面倒を見てやれるが、カリナはれっきとした令嬢だ。労働は難しいだろう。
仕方ない、俺の家に泊めて醜聞になるのは避けてやりたいし、暫くは県外の別邸においてやるか。
あそこには従弟妹(いとこ)の二ジェルとルーテがいるから世話を頼もう。
そう考えをまとめたところで、
カリナがハイディラに伴われてやって来た。
「先程は、見苦しい姿で、申し訳ございませんでした」
深く謝罪するカリナは綺麗な仕立てのデイドレスをまとっている。
布地の質が良いことがひと目で分かる。
長い銀髪はまだ湿っていて、緩く結わえただけだ。洗って土汚れを落とした顔は、まだ幼い。
「長旅なら仕方あるまい。ところで……次女は金髪と聞いていたが、長女は銀髪に碧い目か」
ファングの言葉に、カリナはひくっと肩を震わせる。
相当、本人にとって触れられたくない点のようだ、とファングは察した。
お互い、何をどこからどう話せばいいのか。考えあぐねて黙り込む。
そこへミジィが食事の用意が整ったと伝えに来て、ファングはカリナとレオンも連れて食堂へ向かった。
「さぁ、立ってないで、掛けろ」
ファングは食卓の椅子を勧める。
カリナに出された食事は、スープにパンを入れて一緒に煮ただけの、一見質素なものだ。
だが細かく刻まれた野菜にほぐした蒸し鶏も入って、滋養のあるスープに仕立ててある。
すりおろしたチーズの香りとコクも引き立ち、風味豊かな一品だ。
甘い紅茶やプディング、果物も色とりどりに並ぶ。
レオンとファングも少しばかり果物を口にしている。
食事はカリナのためだけに用意されていた。
柔らかいパン。口に含めば、煮込んでもまだ麦の香りが口いっぱいに広がる。
……この5日間でカリナが口にしたのは、噛めないほどに硬い小さな黒パン2個。
数日ぶりに口にする、
温かく、柔らかい食べもの。
「うっ……ふぇ、」
カリナは食べながら泣き出した。
「ど、どうした?」
慌てるファングに、カリナは呟いた。
「おいしい……」
こんな食事をこんなにも美味しいと思ったのは初めてだった。
王都の家では、一応身分相応の暮らしはしていたし、もっと美味しい料理も食べているけれど。
カリナは、溢れる涙を必死に拭いながら、
「ご飯、ありがとう、ございます」
と食べる。
一口一口が、その温かさが、身体に染み渡る。
旅路を必死に耐えて気丈に振る舞っていた娘が、声を上げて泣き出した。
カリナのわななく薄い背を、ファングは黙って優しく撫でた。
まるで父と娘のように、彼はカリナにそっと寄り添った。
泣きじゃくりながら、カリナはスープを食べプディングを平らげ果物もあらかた食べた。その旺盛な食欲にレオンはにこにこし、ファングは食べながら泣いている娘におろおろするばかりであった……。
温かい食事を摂り終えて、一行はファングの執務室へ戻った。
「あの、重ね重ね、申し訳ございませんでした」
カリナはさすがにもう気も腹も落ち着いて、恥ずかしい思いで謝った。
汚れた格好で押しかけ
ファングの前でうたた寝をし
風呂を借り
食事を出させ
泣いた。
しかも、正規の婚約者でもないのに。
これはもうファングのほうから婚約破棄されても仕方がない。
「それにしても、此方へ断りもなく嫁を替えて送りつけるとは。
いくら王弟殿下といえ、こちらへの侮辱も甚だしい」
ファングは怒りを通り越して呆れたような口ぶりだ。
「申し訳ございません、……ローンヌルフ卿。妹のペンネをお望みでしたのに、参りましたのが私で」
まさか、妹に婚約者を奪われて代わりにローヌルフ辺境伯を押し付けられた、とも言えず、カリナは俯いた。
「……妹は俺が怖くて、姉を身代わりに差し出したか。それともビクセル殿は、俺なんぞに“太陽と若葉”を差し出すのが惜しくなったか」
ファングの口から“太陽と若葉”という言葉を聞かされて、カリナは一瞬、ぎゅっと目を瞑り、己の髪を掴んだ。
ファングはそれを見て、穏やかな口調で訊ねた。
「ところで、ソノルズ家の娘が銀髪というのは聞いたことがなかったな。その髪は、今までは隠していたのか?染めるなどして」
「……はい。夜会に出席します際は必ず」
ファングはレオンと視線を交わし、
「御苦労なこった」
大仰に肩をすくめている。
表立って侮蔑してこないけれど、それを問われるということは。
多かれ少なかれ、銀髪が気に障るのだろう。
カリナは、
「やはり、……銀髪は見苦しいでしょうか」
震える声で聞いた。
「ん?……まさか」
ファングは己の髪を指して言った。
「この深紅の髪を持つ俺が、他人の髪色にとやかく言うとでも?」
レオンも優しく言い添える。
「双子の妹、それも“太陽と若葉”と比べられて大変だったんだろうけど、ここで銀髪は珍しくないよ」
カリナは驚いて顔を上げる。
ファングも頷いている。
そして彼は立ち上がってカリナを手招いた。
「カリナ嬢。良いものを見せて差し上げよう。ついてきなさい」
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