第2話 変身物語
1 〜私の初めての馬車旅行記〜
乗合馬車を乗り継ぐこと、5日目。
カリナはようやく、北の辺境,“ユジャム県”の地に入った。
窓の外には、荒涼とした平野が広がる。
曇りの空の下、遠くに森らしき黒い筋が見える。
手前のヒースの茂みに色はなく、天気と相まって寒々しい。
王都は活気ある町並みと頻繁にすれ違う馬車の車輪の軋みが賑やかだったのに。
それも半日、一日と乗り続けるうち、車窓の外に見える建物が減り、やがて、民家と畑が点在する郊外に出た。
殆ど馬車には出会わなくなり、見かけるのは商人の荷車や、馬に乗って道をゆく旅人の姿。
牧草地をひたすら進み、そして荒野と、景色が移りゆく。
時々うとうとと寝かかり、でも馬の交代や乗り換えで、はっと目を覚ます。
街道をひたすら進むだけの旅程が続く。
一度、どこかの貴族の家紋の付いた馬車が行列をなして来るのを見た。
きっと、家族と従者と侍女とそれから何人もの家来を連れての旅行帰りだろう。
カリナはついぞ、遠方への旅行など連れて行ってもらえなかったけれど。
外で髪を染めなおすわけにはいかないので。
女の一人旅で、どうして良いか分からぬまま、駅逓の安宿にも泊まれず、カリナはずっと馬車での移動を続けていた。
今着ているドレスは手持ちで一番古いもの。腰下の膨らみの少ない簡素なつくりで、腰の締め付けも緩めだ。
長い銀髪は編み込んで、帽子の中にしっかり隠している。
茶色や淡い金髪がこの国では一般的だ。
己の銀髪は貴族社会でなくとも奇異な目で見られ、気味悪がる者も居るだろうから。
最初の晩、この一番地味な格好に帽子で宿屋に入ろうとしたら
「おや、いい身なりだねぇ、どこの侍女ちゃんだ?え、ご主人様に秘密で何しに来やがった、人様に言えねぇことか、男でも漁りにきたのか?」
と垢まみれのシャツに継ぎ接ぎのズボンの男に絡まれた。
煙草の煙が満ちる店内。
床は酒に濡れている。
賭け事と艶話で騒ぐ男たち。
あまりに猥雑な様相に、カリナは怯えて逃げ出したのであった。
「……家名を出せば、きっと、醜聞になるわ。公爵家令嬢、それも王族の女性が全くの独り旅なんて。人に知られてはならないわ」
そのことに思い至ったカリナは、馬車の座席に横になって夜を過ごした。
寒さだけでなく、侍女に間違われた惨めさが身を刺してくる。
……旅行で野宿するなんて思ってもみなかった。
……もっと分厚い毛布を持ってくればよかった。
温かいベッドが恋しい。
郊外は治安が悪いのか、
2日目の夜は、駅逓の番犬の吠え声や人々の怒号に飛び起きては、馬車の床に身を伏せた。
翌朝、夜の騒ぎは野盗の出没だったと御者が言っているのを耳にした。
たまたま宿に剣士が滞在していたとかで、彼が野盗を追い払ってくれたお陰で事なきを得たらしかった。
野盗が出るなんて。
なんと恐ろしいことか。
自分は生きて辺境にたどり着けるのだろうか。
次の夜は、野盗に怯えるだけでなく、真夜中に鴉や獣の声に何度も目が覚めた。
路端の木をねぐらにした鳥があまりに鳴き騒ぐのでそっと窓の外をうかがったら、宿屋の窓明かりの下を野犬が数頭彷徨いていた、なんてこともある。
野生の動物や鳥の声がこんなにも不気味なものだなんて。
昼間に聞く、愛玩動物の犬猫や小鳥の声はあんなにも可愛いのに。
次の晩も、その次も宿に泊まるどころか体も洗えず着替えすらできずにここまで来てしまった。
街を離れ人通りが減れば減るほど、宿は貧相になっていった。
昨日はもう、馬小屋のほうがまだ清潔なぐらいの宿屋しかなかった。
食事も、朝に出会った露天商から買った小さなパンで凌いでいる。
今まで知らなかった飢えと渇きと寒さに震えながら、カリナは今夜も堅い木の長椅子に身を横たえる。
座り続けで強張った体を少し伸ばして、一息つく。
大きな膝掛けとショールを荷物から取り出して体に巻き付け、トランクを胸に抱いて目を閉じる。
「……このドレス、地味だと思ったけど。今は本当に、薄汚れてみすぼらしいわ」
日中は延々と馬車に揺られて、臀部の布地もだいぶ擦れて薄くなった気がする。
幸い、真夏ではないので汗をかいてはいないけれど。
「髪、洗いたいなぁ……」
こんな汚れきった姿で、自分は婚約者に会わねばならないのか。
あまりの惨めさにぐっと唇を噛んだ。
その晩、カリナは、ぎゃーぎゃーとけたたましい鴉の声で目が覚めた。
そのカラスの声の間隙を縫うように、はっきりと獣の低い唸りが近付いてくる。
カリナは飛び起きて窓の外を覗いたが、月光に照らされた黒い荒野が広がっているだけだ。
風に揺れる草むらの何処かに隠れているのか。それとも道の側に迫っているのか。
一体何がそこにいるのか。
獣に詳しくないカリナには予想もつかない。カリナは何もできず、怯えて毛布にくるまった。だが、鴉たちに追い払われたのか、不気味な獣の声は馬車に近づかず、やがて夜は静寂に包まれた。
明け方、カリナは窓をコツコツ叩く音に起こされた。黄色の小鳥がそこにいる。
目の上に眉のように黒い線の入った、愛らしい鳥だ。
ただ、過去に怪我でも負ったのか、右眉の模様が途切れている。
カリナを見て小首を傾げ、ぴょるぴょる、ぴょるると頻りに囀っている。
「あら、なんて可愛いの!」
カリナは手持ちのパンをあげたかったけれど、小鳥はさっさと飛び立ってしまった。
そして馬車は日の出とともに、がたがたと悪路をゆく。
窓の外は依然として荒野がひろがるばかりだが、今朝は朝露に煌めいて見える。
小さな村でもあるのか、平屋が数軒ずつ点在している。
昼ごろようやく荒野を抜け、町並みに差し掛かった。
一日半ぶりに見る、町。
人々が行き交う町。
商店の並ぶ町。
あぁ、ここは人の住む地だ。
動物の声が不気味に響く、怖く心細い夜をもう過ごさなくていいんだ。
嬉しさのあまり椅子から飛び跳ねてしまった
カリナは、硬い座面に尻を強かに打った。
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