9,実験都市グラン・ビアル


 王都中央塔での装いを整えたあと、俺たちは塔の屋上に立っていた。

 夜はすでに深く、雲の切れ間から、半月が姿を見せている。世界の匂いが、血と煙と、魔獣の気配に染まっている。

 北東、グラン・ビアルの方向に、赤黒い光の揺らめきが見えた。他の方角にも、ところどころ戦火の赤が揺らめいている。

「空、飛べるよな? ゴドリゲスは」

 俺の問いに、彼は当然のように鼻を鳴らした。

「飛ぶさ。お前は?」

「……無理だ」

 言った瞬間、ノアールがすっと前に出た。

「私が運ぶ」

 その声には張りがあった。だが、その足取りはわずかにふらついていた。マントの内側から覗く腕には、すでに何重もの包帯が巻かれていて、赤黒く染み出した血が乾きかけていた。

「無理するな。前の戦いで……」

 俺が言いかけると、彼女は一瞬だけ眉を寄せた。そして懐から錠剤を一粒取り出し、無言で口に含んだ。喉を鳴らす音がしたあと、彼女は俺の目を見据えて、言った。

「問題ないわ」

 強がるように、少しだけ笑みをみせた。けれど、その瞳の奥に宿る疲労の色を隠しきるには、RA強化薬でも限界が見え隠れしていた。肌の血色は薄く、呼吸も浅い。魔獣を一掃したあの戦いの後だ。加えてRAの酷使。限界は、すぐそこまで来ている。それでも彼女は、誰にもそれを言わず、じっと手に持ったRA強化薬を見つめていた。

「……わかった。でも、落とすなよ」

 俺の言葉に、ノアールは片手ずつ、俺とミズナの肩を抱え込んだ。

「軽くはなさそうだけど……まあ、何とかなるわ。重たいのは最初だけだし」

 ミズナは笑っていた。

「あたし、空飛ぶの初めてかも。なんか新鮮〜」

「行くわよ。振り落とされても知らないから」

 次の瞬間、地を蹴る音もなく、重力が引き剥がされる感覚が訪れ、ふわり宙へ。

 夜空が広がる。王都の灯りが次第に遠ざかり、風の音が全身を撫でていく。不思議な感覚だった。すでにノアールの手から離れ、ノアールの両翼の位置で、風のRAにただ身を任せている。星の光を背に受けながら、夜の闇を滑るように飛んでいた。先行するゴドリゲスは身体強化系の跳躍で空を裂くように進んでいた。

 俺はノアールの横顔を盗み見た。その瞳はまっすぐ前を向いているが、そこには鋼の意志と、紙一重の危うさが混ざっていた。ノアールは、何を背負って、どこまで飛んでいくつもりなんだろうか。

「わぁっ……! 見て見て、雲、触れそう!」

 ミズナが歓声を上げる。風を切って浮かぶことが、よほど楽しいらしい。両腕を広げ、身体を傾け、鳥の真似をしながら無邪気にはしゃいでいる。

「これが風ってやつ? ひゃっほーい!」

 俺の身体を軸にくるりと回ってみせて、再び風に乗る。その姿は、まるでこの世界の重力から解き放たれたようだった。

「セッカ、あの光、何? あれがビアル? ねえねえ、近づいてる? ねえ!」

 騒がしい声。この無防備さ。場違いな明るさ。ひっかかる。ノアールに匹敵しないながら、あれほどのRA適性を持ちながら、過去の記録がまったく残っていない。やはり、こいつが魔王ではないのか。コロシアムに魔獣が降り立ったときもミズナは不在だった。

 俺の疑念をよそに、ミズナは夜空の中で無邪気に手を伸ばし、星に触れようとしていた。この空の先に何があるのか。何が待っているのか。わからない。だがひとつだけ、確信できることがある。この四人の中で、一番何かを隠しているのはノアールではない。ミズナだ。

 

 グラン・ビアルに降り立ったとき、そこにあったのは不自然なまでの静寂だった。

 RA強化薬の製造で栄えたこの都市は、コウト王国ほどの煌びやかさとは言わないまでも、俺の田舎に比べたら十分に発展している。道は舗装され、豪勢な住宅が並び、丘にはこの街の発展の源泉である製薬工場が煙突から煙を吐いている。はずだった。けれど今、通りを満たしていたのは、ただ無数の瓦礫と、焦げた匂いと、炎が照らし出す残酷な現実で満たしている。

 街の中心部には魔獣の死骸が転がっていた。巨大な個体だったが、すでに絶命して久しい。近くの建物は半壊し、RAによる攻撃痕が生々しく刻まれている。

 けれど、あたりに人の姿はない。住民も、魔獣も、誰も。あまりに静まり返っている。まるでもう、戦の残骸のように終わっている。

「……なんだこれ。誰が倒したんだ?」

 ゴドリゲスが肩越しに剣を構えながら周囲を見渡すが、答える者はいない。住民はどこかに退避したあとだろうか。

 ミズナは煙の匂いに鼻をしかめつつ、燃えて崩れ落ちる家屋を見つめていた。

 そのときだった。広場の向こう――崩れた建物の影から、ひとりの少女が姿を現した。まだ幼い。十にも満たない年頃だろう。

 焼け焦げた衣服に肌をかすめた黒いすす。紫がかった髪は乱れ、瞳は虚ろ。焦点はどこにも合わず、徘徊している。けれど、ノアールの視線だけが、その子に真っ直ぐ向かっていた。

「……リリィ?」

 ノアールがつぶやいた。歩みを止める。

「知っているのか」

「私の……私の妹……り、リリィ!」

 少女はとことこ歩いてくると、まっすぐノアールの前に立ち、ぽつりと告げた。

「だえ?」

 少女の呂律は曖昧だ。表情もまた、なぜだか恍惚とした笑みを浮かべている。少女の腕には何本もの注射痕が浮いていた。RA強化薬の副作用か、肌の色もおかしい。

 ノアールは動けなかった。目を見開いたまま、唇をわななかせ、何かを言おうとするが、声にならない。

 次の瞬間、彼女は少女を強く抱きしめた。

「ごめん……」

 ぽろぽろと涙が落ちる。ノアールは小さな身体にしがみつきながら、何度も何度も同じ言葉を繰り返した。

「ごめんね、リリィ……私が……私が止めなきゃいけなかったのに……」

 氷のような彼女が、まるで子どものように震えている。その小さな身体を抱く姿に、ただの優等生ではない、彼女の過去の重さがにじみ出ていた。

「……うちに連れて帰る」

 ノアールはそう言うと、妹の身体をそっと抱き上げた。意識は薄く、虚ろな瞳が一瞬だけノアールを捉え、また宙に溶けた。

「歩けるか?」

 俺の問いかけに、ノアールは小さく頷いた。だがその足取りは、明らかに揺れていた。RAの酷使と精神的な負荷、そして――妹の姿。

「……私の家、近いから」

「実家か。豪邸に招待されるとは光栄だな」

 ゴドリゲスが、軽口のつもりか、意図的な皮肉か判然としない声で言う。けれど、ノアールは何も返さなかった。彼女の視線は妹だけに注がれていた。

「いいの?」

 ミズナが言った。どこか無邪気な響きを帯びながらも、目は鋭かった。

「……この子を休ませないと」

 それ以上は何も言わず、ノアールは歩き出す。俺たちは黙ってその後を追った。

 グラン・ビアルの豪邸が並ぶ中枢区域は、まだ戦火に巻き込まれていなかった。幾何学的に並んだ石造りの床を歩いていくと、そのなか、ひときわ高く、真っ白な外壁が印象的な邸宅があった。ここがノアールの実家らしい。

 門が開くと、執事らしき男が無表情で迎えたが、ノアールの姿と妹の状態を見た途端、顔を強張らせて頭を下げた。

「お、お嬢様!? 奥様にお伝えいたします」

「母さんは、いい。それより東の医療棟」

「リリィ様……」

 通されたのは、屋敷の東翼に設けられた専用の医療部屋だった。薬品の匂いと機械の規則正しい音が満ちるなか、妹はベッドに寝かされ、治療用の装置が稼働を始めた。

「あなたは知っていたの?」

 ノアールが執事の男を鋭い眼光で詰める。

「……はい。しかし、わたくしめでは」

「どうして! だから……これだから……ここは」

「申し訳ございません。お嬢様」

 ノアールは黙ったまま、妹の注射痕を見つめていた。やがて、彼女がふと俺たちを振り返る。

「……こっち。応接室に」

 その声に導かれ、広い屋敷の奥へと足を進める。絨毯の沈む音が、やけに耳に残った。

 応接室は、余計なもののない洗練された空間だった。天井が高く、壁には抽象画のような薬草のスケッチが規則的に配置されていた。俺たちは深く沈むソファに腰を下ろしていた。けれど、誰もくつろいでなどいなかった。

 ノアールは立ったまま、背を向けていた。窓の外を見ているようで、見ておらず、その手元ばかりを見つめていた。

「……この家に戻るの、何年ぶりかな」

 ふっと自嘲気味に呟いた声が、静けさを割った。

「私は、RA強化薬に依存してるの。RAを使うとき以外でも、飲んでしまう。もう、何年も前から」

 その言葉に、ゴドリゲスが少しだけ眉を動かした。ミズナは反応を見せなかった。俺は黙ってノアールを見ていた。

「最初は、父が強くなる薬だって与えてくれた。でも気づいたら、飲まないと“普通”でいられなくなってた。うちでそれ、作ってるしね」

 ノアールの手が震えた。けれど彼女は、それを止めようとはしなかった。

「この街は、RA強化薬をたくさん作って、たくさん消費して……そんな人がたくさんいる。私も最初は強くなれるならって、受け入れた」

「でも」とノアールは続けた。

「私、覚えてるの。まだこの家が小さくて、薬なんかじゃなくて、煎じたハーブで母が風邪を治してくれてたころ。父は研究所じゃなく、ただ畑で植物を育ててた。貧しかったけど……今よりずっと、あたたかかった」

 振り返ったノアールの目が、俺を射抜いた。潤んだ瞳なのに、どこか強い光が宿っている。

「RA強化薬なんて知らなかったころに、戻りたかった。でも、私はそれを拒めなかった。自分の価値が欲しかったから」

 そのとき、ミズナがぽつりと言った。

「呪ってるの?」

「……え?」

「この街とか、王国とか、薬とか、強くなりたいって思った自分のこととか」

 ノアールは答えなかった。けれど、その沈黙が、肯定よりも痛かった。

 ゴドリゲスが口を開いた。

「じゃあお前は、この街を憎んでるってわけか」

「あなたって、ほんと馬鹿ね」ノアールが即座に言った。「憎んでるけど、愛してた。……だからこそ、許せないのはこの街じゃない。“実験場”にしたあの人たち」

「“あの人たち”って?」

「ゴードン・クレイモア。そして、その一族。勇者として崇められている、あんたの家よ、ゴドリゲス」

 場の空気が一瞬、ぴたりと止まった。

 ノアールの声は低く、鋭かった。けれど、それは怒りよりも悲しみに近かった。

 短い沈黙のあと、ゴドリゲスがゆっくりと立ち上がった。背筋を伸ばしたその姿は、平常を装っているようで、内側では言葉を探しているのが見てとれた。

「……あのさ。オレは、そんな話、知らなかった」

 まっすぐにノアールを見るでもなく、視線は少しだけ逸れていた。

「クレイモアは、オレの父親だ。……けど、だからって、オレの責任か? オレが何をしたっていうんだ」

 声には、怒りよりも、戸惑いがあった。ノアールの視線はゴドリゲスの胸元を見つめたまま動かない。彼女の指先がかすかに震えているのに、ゴドリゲスは気づいていない様子だった。

「だけど……なるほどな」ぽつりと、何かを納得したように言う。「あの時、最終試験で向かい合ったとき。お前、殺す気だったもんな。あんな目、今まで見たことなかった」

 自嘲気味に笑う。

 ノアールは何も返さなかった。あきれてものも言えない、といった具合に。

 空気が重くなっていく。ゴドリゲスのあまりに無神経な発言に、俺は、思わずソファから腰を上げた。

「もうやめよう。ゴドリゲスを責めても仕方ない」

 ゴドリゲスがこちらを向いた。

「セッカ、お前はどうなんだよ。ノアールの過去を知ってたのか?」

「知ってたのは、彼女の家がこの街の製薬家だってことだけだ。詳しいことは何も」

 俺は、ゆっくりと息を吐いた。

「けどな、今こうして俺たちがここにいるってことが大事なんじゃないか? ……コロシアムの魔獣を一緒に倒しただろ。だったら、これからどうするか。それを話し合おう」

 ノアールが、わずかに肩を震わせた。

「私がこの街を出たから、リリィは……」

 重たく、だれも何もノアールの心の痛みに寄り添えるだけの言葉を知らなかった。

 窓の外ではその戦火の煙が昇って見えた。

 ノアールがまた何かを言おうとしたそのとき、部屋の扉が開いた。重厚な金属の軋む音とともに、中年の二人の男女が姿を現す。

 いずれも上級貴族の装いで、この街の支配層として過ごしてきた誇りがにじんでいた。

 女のほう――ノアールの母が、部屋に入るなり言った。

「リリイはもうダメになってしまった。あなたが帰ってきてくれたということは、わたしたちを助けてくれる。ということなのでしょう?」

 それはあまりにも唐突で、無神経で、娘に対する安否の言葉はひとつも、この街が置かれた状況も、なにひとつ無視した発言だった。

 ノアールが声を失って立ち尽くしている間に、母の視線はセッカを通り過ぎ、ゴドリゲスの姿に止まった。表情が一瞬だけ強張る。

「……あら、そちらはゴードン家のご子息。ということは、あなたが次代の勇者候補筆頭の――」

 言葉が途中で切れた。横から、父が低い声で続けた。

「では、どういうことだ?」

「何が、です?」ゴドリゲスが不穏な声色を探る。

「魔獣の活性化だよ。クレイモア様がご健在であるにもかかわらず、どうしてこの街が襲われる?」

 母も口を開く。

「魔王を討伐した勇者が生きているのに、魔界の魔獣が活性化するなんて……そんな話、聞いたことがないわ。まさか、勇者制度の何かに欠陥が?」

 ゴドリゲスは椅子から立ち上がり、苦々しく額に手をやった。

「それは……オレにもわからない。父、クレイモアは生きてる。だが、どうして魔獣が……オレだって、それを知りたい」

 両親の視線がゴドリゲスから離れたとき、俺は口を開いた。

「……答えなら、あるかもしれません」

 誰もが俺に注目した。

 なるほど。ゴドリゲスとて、勇者が死ねば魔獣が活性化することを知っているらしい。ノアールの両親については、その階級の高さから知っていても不思議ではない。ならば話そう。真実を。

「本物の“勇者”は、俺の父――コウノ・ビカクです」

 ノアールの母が眉をしかめた。

「その名前、どこかで聞いたことが……」

「王国の記録には残ってません。抹消されたんです。父が魔王を倒したという“真実”が。代わりに、偽りの栄光を担わされたのが……クレイモア」

 ゴドリゲスがぎくりと肩を揺らす。

「じゃあ、オレの父は……」

「偽りの勇者として、国に祭り上げられた。そうしなければならない理由が、王国にはあった」

 言いながら、俺はノアールの両親を見つめた。その表情は、明らかに信じがたいという色に染まっていた。

「だから、魔獣が再び動き出したのは、“本物の勇者”が死んだからです。……父は、昨日亡くなりました」

 ノアールの母が、ぽつりとつぶやいた。

「そう……」

 父は目を伏せて、娘の背中を見つめていた。

 沈黙を割ったのは、ミズナの声だった。 

「じゃあさ、どうして“勇者が死んだら魔王が蘇る”なんてことが起きんの?」

 ミズナの問いは無邪気にも思えたが、その赤い瞳は底の見えない深さを湛えていた。俺はゆっくりと頷き、言葉を選びながら口を開く。

「この世界では……“破壊”と“創造”が常にセットで起きている。誰かが“魔王”を倒すと、いったん世界は平和になる。でもそれは、“死”の一時停止にすぎない」

「……一時停止?」

「ああ。魔王が敗れた瞬間、魂の循環も止まる。その代わりに、“勇者”という存在が世界の均衡を保つ象徴になる。……だが、その勇者が死ねば、蓄積された魂が再び解放される。魔王は、その奔流の象徴として蘇る」

 言いながら、俺はゴドリゲスの表情を伺った。彼の顔から血の気が引いていた。

「なら……父は、ゴードン・クレイモアとはなんなんだ」

「飾りだよ。本当の勇者は、世界の“装置”だった。それを理解したうえで戦ったんだ、俺の父ビカクは」

 ゴドリゲスは拳を握って見つめていた。名誉も誇りも、すべてが王国の幻想だったと突きつけられた彼の矜持は、音を立てて崩れかけていた。

 ノアールが言う。

「ねぇ、母さん、父さん。あなたたちはそれでも、コウト王国に忠誠を誓うの?」

 両親は沈黙したまま、何も言わなかった。

「この街が、どれだけのRA強化薬にまみれて、何人が壊れていったか知ってるでしょう? リリィだって、あんなになって……どうして、あんなになるまで薬を投与したの? ねえ! 答えてよっ!」

 ノアールの声が震える。怒りと、諦めと、侮蔑に近い冷ややかさを孕んで。

「あなたたちは、目を背けただけ。金と特権をもらって、心地よく夢を見てただけ。王国は正しいって思っていれば、罪悪感を感じなくて済むから。実の娘すら……そのための道具にした」

 両親はまるで耳に蓋をしたように、表情を変えなかった。

「……ほんと、滑稽ね」

 ノアールの目が細くなった。その視線は、両親の影にあるコウト王国の有り様そのものを射抜くようだった。

 未だに腑に落ちていないゴドリゲスは、今一度たしかめるように、あるいは疑うように口を開いた。

「……わからない。俺も、父さんに直接訊いたことはない。けど……そんなはずはない。ゴードン・クレイモアは“本物の勇者”なんだろ?」

 現実を受け止め、その覚悟に震えるノアールに反して、ゴドリゲスのその態度にいい加減辟易としてきた。

「違う。魔王が復活するのは、勇者が死んだときだ。これは偶然じゃない。この世界の摂理なんだよ。いい加減わかれよ!」

「なに……?」ゴドリゲスが喧嘩腰に顔を上げた。

「ビカク。俺の父親は、本物の勇者だった。だがその死が報じられた瞬間、魔王軍が動き出した。つまり、勇者の死こそが、世界の再起動装置なんだ。まだわからないのか」

 言葉は凶器だった。世界を断罪する、あまりにも簡単な刃だった。

「だから、クレイモアが生きているのなら、魔王の復活はおかしい。彼は魔王を倒した勇者なんかじゃない」

 ゴドリゲスの瞳が揺れた。視線は定まらず、唇が震えていた。

「でも、セッカの親父さんが亡くなったのは昨日。そして魔獣が動き出したのは翌日の夜。そのタイムラグはなんなんだ」

「いい加減にしてくれ! 俺だって、わからないんだよ。だがな、事実を受け入れろ、ゴドリゲス!」

 俺が知っているのは父が残した書物に記された情報だけだ。この世界のすべてを知っているわけではない。

「なら……オレが誇りにしてきたものは……いったい」

 彼の声は、どこか子供のようだった。必死に守ってきた旗印を、根本から否定された者の声音。

「誇り、ね」

 ノアールの口元が冷たく歪んだ。

「それが一族の矜持だっていうのなら、あなたたちは、私たちを何だと思ってたの?」

「ノアール……」と母親が声をかけるが、彼女は振り向かない。

「私たちはこの街で、強化薬を与えられて育てられた。強くなること、王に尽くすことが栄誉だと思ってた。でもその結果、どうなった?」

 彼女はゆっくりと振り向いた。

「あなたたちは、信じるという名の目隠しをしてた。忠誠心という言葉で、考えることやめた。思考停止の獣だよ。そんなの」

 ノアールの母が一歩前に出た。

「私たちは、王国に仕えてきたのよ。それが間違いだったというの?」

「間違いとは……言わない。言えない。でも、もう終わりにしなきゃいけない。私たち自身で選ばなきゃ、何も変わらない。だから私は勇者になって変えたかった」

「そんな……あまりに、残酷」

 ノアールの母のつぶやきに重ねるように俺は言う。

「残酷ですよ。けど、それがこの世界の理だ。“死”がないと、誰も本気で生きられない。“終わり”がないと、“今”の意味もわからない」

 ふと、ゴドリゲスが苦しげに声を漏らす。

「じゃあ……俺は、なんなんだ。勇者の一族として生まれて、勇者じゃなかったってのか……。俺の生き方は、全部……偽りの、無意味な愚行だったのか」

 彼の視線が宙を彷徨う。俺は答えなかった。ただし、ノアールの沈黙が、すべてを物語っていた。それでもう、十分だと感じた。彼には言葉より、考え、受け入れる時間が必要だ。

 ――ドォンッ。

 重い音が、そう遠くない方角から響いた。空気が一瞬、凍りつく。誰もが息を止めた。

 ノアールの父が真っ先に反応し、窓辺へ駆け寄った。重厚なカーテンを掴んで引き裂くように開け放つ。

「嘘、だろ……」

 その声は、胸の奥から漏れた呻きだった。窓の向こう、暗い空を裂くように炎と黒煙が立ちのぼる。

 ――製薬工場だった。

 ノアールの家が反映した栄光、RA強化薬の供給源。富と名誉をもたらした、家の誇りが、音を立てて崩れていく。

「何をしている……なぜ、警備は……!」

 父はわななく声で喚いた。両手を窓枠に押し当て、血の気が引いていた。

「すぐに……止めなければ……すべてが……っ」

 言葉が尻切れに消えていく。もはや、俺たちの存在など見えていないのだろう。彼の目に映っているのは、崩れていく栄光と、赤黒く染まる空だけだった。

「……あれが、今の現実よ」

 背後から、ノアールの低い声が響いた。

「お父さんは、富と名誉のために薬を作った。それが誰を壊しても、何を奪っても……目を背けてきた」

 彼女の目は、炎に照らされたガラス窓に映った自分自身を、まるで他人のように見つめていた。

「今、その報いが来ただけ」

 父がふらつくように後退し、こちらを振り向いた。表情は歪んでいた。怒りと困惑と、焦燥。

「ノアール……おまえ……まだ薬は……」

 かすれた声でそう言って、ポケットから小さなケースを取り出す。中には、見覚えのある錠剤。

 ノアールは、何か汚いものを見るような目で視線を落とした。

「まだ……それにすがるの? リリィをダメにして次は、私だと?」

「おまえは、まだ戦える。頼む、これを……!」

 震える手で錠剤を差し出す父。実の娘にさげすまれようが、父親の表情には必死さがにじんでいた。だからだろうか。ノアールの指が、動いた。

 そのまま……拳を開いた。

 ――そして、受け取った。

「あきれる」

 それは父に向けた言葉であり、自分に向けられているようでもあった。

 RA強化薬。これは、適応者を人工的に強くするための麻薬だ。身体も、精神も、限界を超えていく。代償は魂だとしても、王国はそれを肯定した。もしかしたらこれも人工的に国防に備えていた策だとしたら、ノアールやリリィは、魔獣が活性化した日に備えた対魔獣兵器。コウト王国、いや、クレイモア。奴に人の心はないのだろうか。

 ミズナが俺に、ぽつりと問う。

「ねえ、セッカ」

「なんだ」

「なんでこの世界のことを、こんなにも知っているの? 物知りだねっ」

「それは父さんが残した書物に、そう記してあったから」

 視線を窓の外へ向ける。そこでは、夜の帳を裂くように、幾つもの火柱が上がっていた。黒煙が工場の塔を呑み込み、崩れかけた鉄骨が火花を散らしている。人間が目を背けてきた、汚い現実を魔獣が壊す。か。不謹慎だが痛快に思った。

 ノアールの横顔は揺らめく火の粉に照らされ、薬を握る彼女の手は、消えてしまいそうなほど白かった。

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