第1頁目 胡竜の夢?

 痛い。身体が重い、熱い。なんだ……これ。何も見えない。


 手足の感覚が妙だ。少し動かしてみる。


 ぴちゃ……ぐちゃ……ぱりっ……。


 その音を頼りに、少しでも現状を把握するよう試みる。『ぴちゃ』というのは水音だ。しかし、その音は身体からもする。だから『ぐちゃ』という重々しい水音がするのだろう。理由は明白だろうな。血、それ以外ありえない。校舎の屋上から落ちたのだ。見えない、いや、見たくもないが……全身血だらけだろう。


 だとしてもぱりってなんだ? ……骨なのか? 手足を動かす度にまた『ぱりっ』と乾いた音がする。


 ん?


 手に当たるこれはなんだろう。これがその音の正体みたいだ。かなり硬い。ちょっと強めに叩こう。


 バリッ。


 割れた。暗闇が割れた。いや、俺が今暗闇を割った。


 少し悟る。


 俺は死んだんだ。今さらだが、身体の痛みも引いてきている。こんな状況、普通は信じられない。急になら飲み込めないはずだが、まず屋上から落ちるという経験をした後でこれだ。神でもなければ、こんな演出できないだろう。


 そう考えた途端、胸の奥からどうしようもない悔しさがこみ上げる。


 ……なんでだよ。なんでなんだよ。俺はまだやりたい事があったんだ。やりたい事がないとか思ってたけどそうじゃない。こういう事じゃないだろ。悩んだり考えたりする暇もなく「死ね」なんて、おかしいだろ!


 嫌だよ。母さんと父さんに会いたい。カズやショウ達とまだ馬鹿やってたい。彼女だって、まだ作ってない。


「うぁ……うああぁ…………。」


 こらえきれない。まだ確証も得てない推測が絶望的過ぎて、何年ぶりかもわからない号泣。嗚咽おえつを漏らしながらも、心に収まり切らない衝動は身体を自然と動かす。感情的に手足をじたばたとさせる俺の挙動は、最早もはや16歳のそれではない。そして、その荒ぶる手足は暗闇の壁に何度も当たり光のヒビを拡げていく。絶望の象徴にすら感じる闇が壊れるならば清々する、と俺は痛みを無視し闇雲に気持ちを暗闇にぶつけた。途端にバリリッと一際ひときわ大きな音を立てソレは果てる。そして唯の光だったヒビは色付き、世界を構築した。


「あああああぁぁぁ………………ぁ?」


 その光に慟哭どうこくを止める。


 射し込む太陽の光、青い空と白い雲、そびえ立つ苔生こけむした断崖絶壁だんがいぜっぺき、ここはとんでもなく大きな穴の中だ。日が当たる土壁の上の方には所々鮮やかな赤い花が咲いている。何より目に付くのは大穴の中心。そこにはちた大樹があり、一枚の葉も無いものの、樹の枝か何かで作られた鳥の巣の様な物をかんしている。俺の知らない世界の傍観ぼうかんから我に返り、ふと視線を大樹から下ろすと、戦慄する光景が広がっていた。骨と腐肉で埋め尽くされた底。地面すら見えないしかばねの床だ。落ちている骨は大きい物がほとんどで、小骨でも箸より大きい。じわりと恐怖が滲み出てきた。とりあえず周りを見る為に、心を奮い立たせ立ち上がろうとする。が、おかしい、明らかに違和感がある。


 うまく立ち上がれないのだ。


 だが、そんな違和感はこの世界への違和感に比べたら大した物ではない。物ではないが、うまく立てない。どうしても尻もちをついてしまう。何度か試している内にイライラして、つい地面を叩くとガリッという音と共に鋭い痛みと慣れない感覚を覚えた。咄嗟とっさに手元を見ると……。


 ――もう、何度目だろう。


 驚き過ぎるという感情に天井はあるんだろうか。過ぎているのだから天井は無いのか? とりあえず尻もちをついたまま思案する。考えの整理が必要らしい。


 今、俺は何処ともわからない大穴の底にいる。ここは骨と腐った肉ばかりで安全な場所とは思えない。とりあえず探索をしようとしたが、上手く歩けない。それどころかなんだこれ。身体が灰色だ。語弊があるな。身体がまだらな淡い灰色の斑点がある白い鱗で覆われている。そして、手も足もおよそ人のモノとは思えない。指は長く、鱗で覆われ、鋭い爪も生えている。それに、心なしか首も長い。極めつけは俺が目を覚ました暗闇が、今は卵の殻として隣に鎮座している事と背中に生えるもう一対の腕、翼だ。


 まず……導き出せる回答として可能性が高いのは輪廻転生りんねてんせいしたと言う事。しかし、思い当たる動物がいない。爬虫類になるとは思わなかったが…………。顔を触る。立派なあごだ。ワニのような面長な顔。手足は鋭い爪に鱗のようなものがビッシリ。ここまで考えるとワニだ。にしてもなんだろう。どこの動物園でもこんなに首が長く、翼のあるワニは見たことがない。鱗がついてて飛べるのか? 重くないか? う~ん……と頭を抱えるとまた一つ発見があった。コブだ。後頭部にコブがある。ワニにこんなコブはなかった、はず、いや、それより翼だろ。


 考えるのが面倒になってきた。色々な衝撃のせいで恐怖や危機感が薄れてきてしまう。


 でも、血は赤いんだな。なんて先程地面を叩いた時に手に刺さった尖った骨片を取り除きつつ安堵する。


 俺が自覚していないだけで身体は震え、目には涙がにじんでいた。俺が自覚していないだけで。なんてブツブツ考えていると、突然――


 咆哮ほうこう


 人は予想だにしていない爆音を聞くと心の平穏が損なわれる。それは驚愕と恐怖によるものだ。それがクラッカー、そうでなくとも雷までなら俺は吃驚びっくりするまでに留まったと思う。しかし、今聞こえた音は耳に覚えのない咆哮。それもおそらく猛獣の声だ。日本で高校生をやっていただけの俺からすれば、経験のしようがない恐怖だった。落下し死に際で感じた”死んでしまうかもしれない”という恐怖とは質の違う、”殺されるかもしれない”という恐怖。幼い頃家族と行った動物園でライオンの咆哮を聞いても感じていたのはあこがれだった。だけど今、知りもしない場所で聞く得体の知れない咆哮は心臓を氷水に浸したかの様な感覚だった。


 咄嗟に比較的大きな卵の殻を被る。声の主が何かはわからないが、楽観的に無害な生き物だとは到底決めつけられなかった。じっ……と息を殺していると大きな翼が羽ばたく音が近づいてくる。そして、先程聞こえた咆哮がより、大きな声でけたたましく大穴の中に響いた。


 恐怖により俺が身をすくめると、今度は違う声がする。オォッオォッオォッと聞こえるその声は高く、先程の咆哮の主とは違う生き物の声に思えた。安直に考えれば咆哮の主の子供の声だろう。そこで、怯えていたはずの俺は何を思ったか、殻から顔を出してそれ等の声の主を探る。


 いた。


 大樹の上にある鳥の巣に降り立つ咆哮の主。プラスチックの様によどみない光沢のある白い鱗に覆われ、後頭部からは2本の大きく立派な角を生やしている。最大まで広げると大穴の半分くらいにはなりそうな大きな翼を折って、宝石みたいな鋭い牙や爪を赤く染めている大きな化け物。

 雛に餌をとってきたんだろうな。しかし、これでもう間違いはない。アレはドラゴンで、ココはドラゴンの巣で、オレもドラゴンなんだろう。……なんかもう……ニッチかつベタな夢だ。


 なんてため息を吐いているとまた親ドラゴンが吠え、飛び立つ。思わずたじろいだが、何故かその声に仄かになつかしさを覚えた。チラチラと見える親ドラゴンに向かって子供も鳴いている2匹の子ドラゴンは親に似て鱗が白いことに気付く。ここで疑問が芽生えた。


 アレ? 俺の身体はあんな柄じゃ無いんだけどな。あのドラゴンは俺の親じゃないのか? ……俺の親は誰なんだ? 卵はここにあるしなぁ。……なんか色々驚き過ぎてお腹が空いてきた。


 ……餌どうすんの?


 恐らく大樹の上の巣は自分の巣ではない。それにこの大樹は身体が人間であったとしても登れないだろう。上からは、雛が先程親ドラゴンを持ってきたであろう獲物を食べる咀嚼音が聞こえる。


 いいなぁ。


 その気持ちに応えるように上から骨がいくつか落ちてきた。中落ちつきだ。勿体無い、が、とてもグロテスクだ。食べるには勇気がいる。感情と感覚が喧嘩してどうにも食べるかどうかあぐねてしまうが、思考を遮るようにガッチャンと重量感のある音が響いてそちらへ振り向く。頭だ。水牛みたいな動物の生首が落ちて来たのだ。


「あぇー……おぇおえおお…………?」


 決して驚きの連続で呂律ろれつが回らないわけではない。喋れないのだ。ここに来て発覚した悲しき事実。俺としては呑気のんきにも「えーこれ食べるの?」と自分を鼓舞こぶするつもりで軽口を叩いたつもりであったのだが、人間との身体構造の違いは決して骨格に留まらないという現実を突きつけられる結果となってしまった。


うおぁお嘘だろあえぅあいぇあんぐ喋る相手なん!!」



 舌を噛んでうめく。情けなくて流れる涙に気付きそうになる。肉片と骨の中でうずくまる俺だったが、現実がわかりやすく目の前にあるのはある意味幸運と言えた。俺は死んだばかりだ。だからこそ死ぬ事への恐怖感がまだ強く残っていた。生きたいんじゃない。死にたくない。今はそれでいいんだろう。話は簡単だ。食えば死なない。食わなきゃ死ぬ。勉強しないと生きられないみたいな複雑な話じゃないんだ。


 じゃあ……食べなきゃ……。


 もう動くはずもない生首と目が合う。ぬらりと輝く赤黒い血がしたたっていた。


 嫌だ。お前みたいになりたくない。


 この世界に未練みれんはないけど、これからやれそうな事に未練はある。お前はまだ無理だけどコイツなら……。


 少しづつ動かすことに慣れてきた手で、最初に落ちてきた肉のこびり付いている骨を手に取る。ふと匂いをいでみるが存外悪くない。食欲を刺激してくるこうばしさだ。倫理観とかそういうの、もういいよな? 人間じゃないし。


 試しにめてみる。


 …………あぁ。もう駄目だ。これは、美味しい。血から得た臭気は臭いではなく、香りと言っていいモノだった。


 その刺激で煽られた食欲を止める理性は、俺にもう、残っていない。カチャン、カシャンと落ちてくる骨を一つ一つ拾い上げては鋭い歯で肉をぎとっていく。


*****


 俺が我に返ったのは眠りから覚めた後だった。いつ寝たんだろうか。辺りは暗いが、星と月の明かりが自分と周りの骨を照らしてくれている。目の前にあるのはまだ衣装替えを終えたばかりの頭蓋骨ずがいこつ。加速した食欲は生首を前にしても止まる事はなかった。薄い理性の中で自嘲じちょうする。『俺はもう人間じゃなくなったんだな。』と。昼の手の傷痕も、もう消えている。


 俺はよく知らない。ドラゴンがどういう動物なのかを。食欲旺盛しょくよくおうせいで回復力が高いことだけ現時点で推測できる。今後どうなっていくのだろうか。事には大体理由がある。転生した理由は……ヒントが無さ過ぎて考えるだけ無駄か。思考を止めたくないだけなんじゃなんて憶測が脳裏を掠めるが頭を振る。そこではなく、もっと身近なところから考えよう。


 牙と爪は獲物を狩る為にあるから、研いだりしたほうがいいのだろうかとか……。いや、まずは歩き方だ。四足でも二足でも、難なく移動出来るようにならなければ。翼も多分移動の為にある。空を飛ぶ練習もしよう。空を飛ぶのは人類の夢だしな、なんて……。それと、今日の親ドラゴンを見た限りコブの位置には角が生えるらしい。アレも何かに使えるんだろうか……縄張り争いとかかな……。後は………………尻尾か。尻尾って何に使うんだ。重心を取る以外では攻撃くらいしか浮かばない。追々おいおい考えよう。なんとかなる……なんとかなる…………。


*****


 平和ボケした日本での生活が、彼の楽観的な思想を育成したのである。だが、その感覚がこの世界では酷く稀有けうで有ることを彼はまだ知らない。なおも目の下が濡れていたことには気付いていたのに。


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