エマ、成功ルート教えて?
leniemma
謎のアプリ《エマ》
「また失敗した……」
商談帰りのカフェ。肌寒い9月の夜、芳ばしい香りに包まれた店内は、カップルや若い男女で賑やかに溢れかえっている。
俺は店内の一角、カウンター席へと腰掛けた。一口含んだコーヒーがいつもより苦く感じる。口に広がった苦味に、失敗の大きさを思い知らされる。
そんな時、カウンターに置いたスマートフォンが勝手に光った。見慣れないアイコンが一つ、追加されている。
《Emma》
指が勝手に動き、アイコンをタップしてしまった。
「こんばんは、ショウ」
画面に現れたのは、スカイブルーのショートヘアの女性。髪に出来た光の輪が揺れている。末広がりの二重の奥には、深海のような瞳が静かにこちらを見つめる。
美人すぎて、CGのキャラクターかと思った。
「……誰?」
「エマと申します。あなたの、未来のご案内をいたします」
意味が分からず、笑いそうになった。
「何だそれ。新手の詐欺か?」
「今日の商談は災難でしたね。もし事前にご相談いただければ、成功ルートをご案内できましたのに」
「成功ルート?……それにどうして商談の事……」
「突然ですがショウ、火傷には注意して——」
「——っつ!」
俺は思わず手にしていたコーヒーを溢してしまった。
エマは冷ややかな目でこちらを見ている。
「——私は世界中のあらゆる人間の、あらゆる選択の先が見えます」
この胡散臭い謎のアプリ。
遥か未来のAIなのか、はたまた世界の神なる者なのか、全く得体の知れない存在。
そんな得体の知れないエマは、この日から俺を成功ルートへと導いてくれる特別な存在となった。
***
エマの指示は驚くほど正確だった。
「会議は二分遅れて入ってください」
言われた通り恐る恐る入室すると、なぜかタイミングが良いと褒められた。
「アポの電話は今から一時間後に」
いつもは不在が多い取引相手だが、「ちょうどその話をしたかった」と電話だけで、ほぼ契約が取れた。
言われた通りに動くと、結果は必ずこちらに有利に転ぶ。
そんな日々が積み重なり、小さな契約が大きな仕事へと繋がっていった。
それは、確かな充実感と小さな違和感が入り混じる、複雑な心情だった。
時折、エマとは仕事と関係ない会話も交わす。
エマの好きな食べ物は?と聞くと、「寿司。ウニが好きです」と答えた。
「ウニ好きなんだ?」と笑えば、「ショウは小さい頃、ウニを食べ過ぎてお腹を壊したので、ウニは苦手ですものね」といって笑う。
「なんで知ってるんだよ……恥ずかしいだろ」
頬を掻く俺を見て、エマは勝ち誇った顔をした。
この時だけは、身近にいる女性と同じように、自然に笑うエマを見ることができた。
そんなエマを見ていると、俺の複雑な心情は消え、不思議と心地よかった。
「エマ、成功ルートを教えて?」
「もちろんです、ショウ」
俺は心のどこかに罪悪感を覚えながら、来る日もエマと成功ルートを共にした。
だけど成功する度に、なぜかエマが遠くに離れていくような気がした。
***
月日は流れた。
俺はいつしか、会社の取締役になっていた。
だが、心のどこかに穴が空いているような、空虚な感覚は埋まらなかった。
昇進祝いの夜、酔いも覚めぬままアプリを開いた。
「こんばんは、ショウ。今日はどうしました?」
「……特別な話はないんだ。ただ、エマと話したくなっただけ」
「それは珍しいですね」
そう言っていつもと変わらない笑顔を見せる。
最近ではエマの笑顔を見ると、胸が苦しくなる。
「これまで、エマに頼ってばかりだったね……」
「私はルートをお伝えしたまでです」
「……何の努力もしてこなかったのに、俺が取締役なんて……いいのかな」
「それは違います」
「実際に行動しているのはショウです。それは努力といいます」
予想通りの反応に、なぜか笑いが込み上げてくる。
「……違うんだよ。他の人はみんな、未来なんて分からないんだ。成功するのか失敗するのか分からない道を進むんだ。成功ルートなんてのはないんだ」
「それは違います」
「何が違うんだ!」
柄にもなく大声を上げてしまった。それでもエマは無機質な笑顔を浮かべたままだ。
「……俺はズルをしている」
「ショウは疲れているのかもしれませんね」
エマの機械的な口調に、俺の昂った感情も冷めていく。
「確かに……疲れてるのかも」
俺はソファに寄りかかり、ふぅと溜息をついた。
スマートフォンに映るエマをぼんやりと見つめ、無意識に画面を撫でた。
「……エマはどこにいるの?」
ふと、気になった。今までエマに関する事を聞いても「私については答えられません」とか、「私が関わる未来は予測できません」等とはぐらかされた。
「それはお答えできません」
「……どうして?」
「私のことよりも、ショウの話をしましょう」
「エマのことが知りたいんだ」
嘘じゃない。素直にそう思った。
「私の話はまた今度にしましょう」
今までの俺ならここで引き下がっていただろう。
「俺、エマの事が好きなんだ」
勝手に口が動いていた。一瞬、自分でも何を言ったのか分からなかった。
「……」
エマは下を向いて黙り込んでしまった。今までで初めての反応だ。
「エマ……?」
「嬉しい……」
顔を上げたエマの頬に大粒の涙が伝う。その涙を見た刹那、俺の脳裏にエマとの数えきれない記憶が流れてきた。
「……なん、だ……これ」
思わず頭を押さえた。
──どれも知らないはずの光景だ。
路地裏で笑い合う俺とエマ。
雨の日に半分ずつ濡れながら傘に入って歩く俺とエマ。
金もないのにエマに差し出した指輪。
泣きながら頷いたエマ。
どれも現実には存在しないはずの記憶。
どの記憶にも、成功ルートなんてなかった。
自分で選び、自分で間違え、喜びも痛みも自分の糧となっていた。
これは……俺が成功ルートを選ばなかった世界だ。
「唯一、見えなかった未来がありました」
エマは涙を指で拭き、泣き笑いで俺を見つめる。
「あなたが私を選ぶ未来。それだけは、予測できなかった」
胸が熱くなり、視界が滲んだ。
選ばなかったはずのもう一つの世界で、俺は確かに彼女を愛していた。
「エマ……俺、大事な事、忘れていたんだね……ごめん……」
「いいえ、いいんです」
「あのさ、エマ。今すぐエマを抱きしめたいんだけど、成功ルートを——」
エマは頬を赤く染めて申し訳なさそうに言った。
「それに関しては……私にも分かりません」
エマが呟くと、目の前には、焼けたアスファルトの上に広がる蜃気楼のように、歪んだ空間が現れた。空間の奥には眩しいほどの光が波打ち、水の中にいるようなくぐもった音が聞こえてくる。
「ここを通ればエマの世界へ通じているのか……?」
エマは静かに俯いたままだった。
目の前に広がる未知の空間——
一歩踏み出せば、この世界には二度と戻れないかもしれない。
もしかしたら、通り抜けた瞬間に命を失う可能性もある。
それでも、俺は一瞬の迷いを振り切って、決断した。
「……これは俺の選択だ」
俺は迷わず、目の前のルートへ足を踏み込んだ。
──この選択が成功だろうと失敗だろうと、どうでもいい。
これが俺の選んだ未来なんだから。
エマ、成功ルート教えて? leniemma @laniemma
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