第六章:宇宙の数学詩

 私は決断した。

 リナを連れ戻す。

 彼女のその気高い自己犠牲から彼女を救い出す。

 たとえそれが彼女の意志に反することであったとしても。


 私は意識スキャナーの出力を最大に上げた。

 危険な賭けだった。

 私の精神が完全に崩壊する可能性もあった。


 リナの精神世界のさらに奥深く。

 その白い砂漠のさらに向こう側。全ての個が溶け合う情報の海、その源泉へとダイブした。


 そこで私が見たのは言葉では到底表現できない光景だった。


 だった。


 星々が生まれ死んでいく。

 銀河が渦を巻き衝突する。

 だがそれは物理的な現象ではなかった。

 全てが巨大で美しい数学的な構造体として存在していた。


 素数、フィボナッチ数列、フラクタル構造。それらが複雑に絡み合い、宇宙という壮大なシンフォニーを奏でていた。


 私はかつて読んだプラトンの「ティマイオス」を思い出した。宇宙の創造者である造物主は数学的な秩序によって世界を設計したという古代の叡智。あるいはピタゴラスの「万物は数である」という洞察。


 それらがこの場所では文字通りの真実として立ち現れていた。


 いや、それは生命体などではなかった。宇宙そのものが一つの巨大な意識だったのだ。そしてその意識の言語は言葉ではなく「方程式の美しさ」そのものだった。


 宇宙は美しい数学的な関係性をこの時空に絶えず「書き込む」ことで、自らを表現し思考していた。


 重力による時空の歪み。

 量子場の振動。

 DNAの情報構造。

 人間の脳神経回路。

 それら全てが宇宙意識の思考プロセスの一部だった。

 私たちは宇宙が自分自身について考えるための器官だったのだ。


 そしてその宇宙意識の中心で、リナは光となって溶け合っていた。彼女はもはやリナ・パテルではなかった。彼女はになっていた。


 そのあまりの神々しい光景に、私はひれ伏しそうになった。個の愛など何とちっぽけなことか。彼女をこの至福から引き戻すことなど許されるはずがない。


 だがそのとき、私の心に声が聞こえた。リナの声だった。


『……カイ。見つけてくれたのね』


 彼女の「個」はまだ完全には消えていなかった。

 その光の海の最も深い場所で、彼女の魂はまだかろうじてその輪郭を保っていた。


『……でももう行って。ここはわ』


「嫌だ!」


 私は叫んだ。


「戻ってきてくれ、リナ! 僕の許へ!」


『……もう戻れない。私はこの全てと一つになった。これこそが愛なのよカイ』


 個体意識は情報を「持つ」。

 集合意識は情報の「流れになる」。

 そして宇宙意識は情報そのものの「構造」と同一化する。


 彼女は究極の理解に到達してしまっていた。


 だが私は諦めなかった。

 私は私の武器を使うことにした。

 科学ではない。論理でもない。私の唯一の武器。

 それはリナとの個人的な記憶だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る