第二章:理論への執着
ヤン・リーの論文を読み返す夜が続いた。
この理論は革命的だった。意識を情報理論の観点から定量化しようとする画期的な試み。クロード・シャノンの情報理論と、統合情報理論(IIT)を組み合わせた新しいアプローチだった。
Iは個体意識量(Individual Consciousness)
C は自己の内部状態に関する情報量(Complexity)
S は自己と外部環境(他者を含む)との相互作用に関する情報量(Sharing)
この方程式が意味するところはこうだ。個の意識とは、自己の内面世界が複雑で豊かであるほど(Cが大きいほど)、そして他者との関わりが希薄であるほど(Sが小さいほど)、強く明確になる。
当時の私たちは、この式を「個人能力の最大化」のための福音だと考えていた。Cを増大させ、Sを最小化することで、一個人は理論上無限の知的あるいは創造的な能力を得られるはずだと。
だが今思えば、その理論には致命的な盲点があった。それは「意識の目的」について何も語っていなかったことだ。
意識は何のために存在するのか?
個の能力を最大化するためなのか?
それとも他の何かのためなのか?
リナが病院のベッドで虚ろな目をして天井を見つめている姿を見るたび、私の心は疑問で満たされた。彼女はヤン・リーの方程式の何に囚われてしまったのだろう。
私はリナの研究ノートを徹底的に調べた。彼女の最後の計算を追跡し、彼女が到達しようとしていた結論を探った。
彼女のノートには、ヤン・リーの方程式を拡張した様々な試行錯誤の跡があった。
「もし意識が情報量の比率で決まるなら、その情報量自体の性質は何なのか?」
「C(複雑性)とS(共有性)は本当に独立した変数なのか?」
「個体意識が最大化されることは、本当に『良いこと』なのか?」
最後のページに、彼女は小さな文字でこう書いていた。
「愛する人がいるとき、Sは本当に減少するのだろうか?それとも、愛によってCとSの関係性そのものが変化するのだろうか? カイと一緒にいるとき、私は確かに一人でいるときよりも『私らしく』感じる。これは方程式と矛盾する。なぜ?」
私は胸が締め付けられるような思いでそれを読んだ。彼女は理論と現実の矛盾に苦しんでいたのだ。そして最後にあの恐ろしい実験に手を出してしまった。
彼女を救うため、私は全てを捨てた。職を辞し、非合法な意識スキャン技術に手を染めた。彼女の美しい、しかし今は沈黙した精神の世界へと直接ダイブするために。
意識スキャナーは元々軍事目的で開発された技術だった。脳波パターンを解析し、一時的に別の人間の意識状態に「同調」することで、深層心理にアクセスする装置。倫理委員会の承認を得ることは不可能だった。
私は闇市場で装置を手に入れ、自分のアパートの地下室に秘密の実験室を作った。毎晩病院を抜け出し、眠っているリナの脳波を測定し、そのパターンを自分の脳に送信した。
それが狂気の始まりであることを知りながら。
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