第34話
それは忘れていた過去のトラウマが急激に呼び起こされ、肉体を支配するような感覚。二年前……空手使い……。
「お前か……」
腹の底から声を搾り出すと、花織は血が滴り落ちるほど拳を握り込んだ。
「父さんを殺したのはお前かああああぁぁ――――ッ!」
搾り出した声はすぐに叫びへと変わった。獣の咆哮よりも荒々しく、気が弱い者なら失神しかねないほどの雄叫び。
ジャネットは大きく目を見開いた。会話の中に入っていたわずかなフレーズから真相を導き出した花織と同様、ジャネットも花織の叫びの内容によりすぐに理解した。
「貴方……あの刑事の娘?」
「弓月拳一郎よ!」
花織は構えを解くと人差し指をジャネットに差し向けた。あらゆる感情を込めて。
このとき、花織の人差し指は震えていた。恐怖から来る震えではない。
怒りである。身を焦がすほどの灼熱の業火が、花織の身体の奥底に凝り固まった何かに火を点けた。
強烈な殺意を込めた視線でジャネットを睨む花織。一般人であれば今の花織の形相を見ただけで竦みあがってしまうことだろう。だが、ジャネットは違った。
「だとしたらどうするの?」
頬を吊り上げてニンマリとジャネットは笑った。それは天界の美女が、瞬く間に地獄の醜女にでも変貌したかのような下卑た笑み。
花織はジャネットに向かい爆走した。父親の仇を目の当たりして、花織の思考と身体は復讐という単純な動機に突き動かされたのである。
「おおおおおおぉぉぉぉ――――ッ!」
猛るような雄叫びとともに、花織はジャネットに攻撃を繰り出す。
刻み突き、正拳突き、刻み突き、と続けざまに神速の連続突きを繰り出すと、最後は相手の首を刈り落とさんばかりの上段回し蹴りを放つ。
そのどれもが必殺の威力があった花織の連携攻撃。特に最後の上段回し蹴りなどは本気でジャネットの首がへし折れてもいいと花織は思っていた――しかし、
「攻撃が雑になりましたよ」
ジャネットは花織の連続突きを悉く捌き、上段回し蹴りなどは軽く上体を逸らしたことで完璧にかわしていた。しかも数センチというわずかな距離でである。
怒りに支配されていた花織だったが、心のどこかでは冷静に場を見極めている自分がいる。その自分が囁いた。「早くその場から離れろ」と。
しかし花織はもう一人の自分の言葉を無視した。攻撃をすべて避けられたのならば、命中するまで攻撃を繰り出すまで。本人はそう思い、上段回し蹴りをかわされた直後、その回転力を生かして裏拳を放った。
バットをフルスイングするような風切り音が発生し、花織の裏拳は水平に綺麗な弧を描きながらジャネットの顎に向かっていく。
「があぁ!」
しかし、くぐもった悲鳴を上げたのはジャネットではなく花織のほうだった。
脇腹に鋭い痛みが走った。鈍器で殴られたような鈍い痛みではない。鋭利な刃物で身体を突き刺されたかのような鋭い痛み。
たまらず花織はその場から離れた。痛みが走った脇腹に手を当て、傷口を確認する。
痛みを感じたときはナイフで刺されたかと思ったが、脇腹には血も出ていなければ着ていたウェアが切り裂かれた跡もなかった。となると考えられることは一つ。
(――刃物……じゃない。貫き手!)
花織は脇腹からジャネットに顔を向けた。
すると、ジャネットは手刀突きのまま静止している。間違いない。ジャネットの細長い指はナイフと形容するぐらいの凶器と化していた。まさに八卦掌の本領を垣間見たかのような瞬間であった。
花織は貫き手を食らった脇腹を押さえながら思考をフル回転させた。と同時に自分自身を激しく心中で叱責する。
(――私の馬鹿! 今まで何のために練習してきたの!)
ジャネットに目が覚めるぐらいの攻撃を食らったせいか、怒りで我を忘れていた自覚がようやく認識できるようになった。
そうだ。闇雲に力を振るうだけで相手を倒せるなら、武術が存在する意味などない。
体力的に劣る人間が、体力的に勝る人間に打ち勝つ。その課題を人間が追い求めてきた結果、めまぐるしく発展してきたのが武術である。
花織は大きく深呼吸をすると、新鮮な空気を両肺に充満させた。それにより酸素が全身の器官に行き渡り、意識が氷水のように透明になってきた。業火のように燃え上がっていた復讐の炎が徐々に鎮火されていく。
冷静さを取り戻した花織は、再びナイファンチ立ちに構えた。
ジャネットも一瞬で雰囲気が変わった花織に顔をしかめたが、すぐに彼我との実力の差を思い出し笑みを浮かべる。
「どうしたの? もう遊びはお終い?」
挑発であったことは火を見るより明かだった。先ほどの復讐という炎に身を焦がされていた花織だったならば、間違いなく後先考えずに突っ込んでいただろう。
しかし、今の花織はその復讐の炎を強烈な意志の力で鎮火し、純粋な闘志だけを放出させていた。それは澄み切った水に曇りなき鏡のような心境――明鏡止水の心構え。
余裕を見せているジャネットに花織は真摯な眼差しを向けた。
「そうね……遊びは終わりよ!」
言葉を発するや否や、花織はナイファンチ立ちの構えを崩さぬまま踏み込んだ。
ジャネットは八卦掌独特の構えのまま動かない。先手を取ってきた花織に対して、カウンターを叩き込む後手に回るつもりだったのだろう。相手が自分よりも格下だと思っているのならば当然の対応であった。そのほうが攻撃を叩き込んだ際、相手はよりダメージを受けやすい。
だがこのときジャネットは気づかなかった。一対一で戦っていたはずなのだが、実は二対一で戦っていたことに。
「今よ! 勇二!」
踏み込みながら発せられた花織の叫びに、ジャネットは明らかに戸惑った。
「貴方――」
正面ばかりに注意と意識を向けていたジャネットが、顔だけを後方に振り向かせる。
「へへ、捕まえた」
勇二である。気絶していたはずの勇二がいつの間にか目を覚まし、ジャネットの両脇の下から腕を回して身体を拘束したのである。
「まったく、狸寝入りなんてしてんじゃないわよ」
それは一か八かの賭けであった。先ほど勇二と接触したとき、明らかに勇二は気絶していると思っていた。だが付き合いが長かった花織はピンときた。
こいつは気絶している振りをしているんじゃないか、と。
花織はジャネットに聞こえないくらいの小声で勇二に指示を出した。もちろんそのときの勇二は返事をしなかったが、こいつならばやってくれると妙な確信を抱いた。
そしてその確信は現実のものになった。
ジャネットは自分の身体を拘束している勇二に肘打ちや金的蹴り、足の甲を踏みつけるなどをして何とか拘束の手から逃れようとしたがそれは無駄であった。
勇二の身体を包んでいるボディアーマーである。大口径の銃弾すら防ぐスーツに、生身の攻撃など効かない。
四苦八苦するジャネットに花織は疾駆していく。速く、鋭く、深く――。
花織は間合いに侵入した刹那、固めた右拳を突き出した。しかし、正拳突きではない。軽く突き出した右拳を相手に苦痛を与えない程度に身体に添える。
ジャネットの鳩尾に添えられた花織の右拳。ジャネットの身体を拘束していた勇二は何が起こるか想像もつかなかったが、ジャネット自身は顔面を真っ青に染めて驚愕した。
「はああああああぁぁぁぁぁ――――ッ!」
次の瞬間、花織の気合が周囲に轟いた。同時に地面をすり潰す勢いで内八字立ちに両足を構え、その勢いが不可視な力を生み出した。
両足から発生した力は螺旋を描きながら上半身に向かい、腰の回転によりさらにその力は圧縮され、添えられた右拳に向かって突き進んでいく。
火山の噴火にも似た爆発力が右拳に異常収斂し、ジャネットの表面で一気に弾けた。
「ごはッ!」
ジャネットの口内から透明色の液体が噴出した。
両目は大きく見開き、全身に稲妻が落ちたように激しく痙攣する。一瞬だったが、ジャネットの長髪が強風に見舞われたように逆立った。
身体を拘束されていたジャネットは、ずるりと平衡を欠いて地面に崩れ落ちた。
花織は荒くなった呼吸を抑えながら、地面に倒れたジャネットを見下ろす。
目の前に父親の仇がいる。その思いが心の底から溢れ出たとき、すでに花織の右拳は正拳突きの構えに移行していた。力の限り握りこんだ拳を腰に引いて構える。
――この正拳を延髄に打ち込めば……
見ると、うつ伏せに倒れているジャネットの延髄部分が剥き出しになっていた。人体に最も甚大な被害を与えられる急所の一つ。それがすぐ手の届く範囲にある。
しかし、花織は正拳突きを放たなかった。
「そんなことをしても父さんに怒られちゃうかもね」
花織はそっと構えを解いた。生前、父親に耳にタコができるほど聞かされた。
一つめは、空手の練習は毎日行うこと。これは一日でも怠ればすぐに技が錆びついてしまうからであった。武術家にとって己の磨いた技こそ財産なのだそうだ。
二つめは、その磨いた空手の技を私利私欲で使わないこと。人間というのは手に入れた力を使いたくなる。しかし武術家はその本能を鍛えた意志の力で戒め、正しい行いのときだけ行使しなければならない。武徳というのだそうだ。
そして私利私欲ではないが、今日だけで数え切れないほど空手の技を使った。いくら借金を返済するための手段だったとはいえ、人を傷つけたことに違いはない。それなのに最後の最後に人殺しをしてしまっては天国にいる父親に顔向けできない。
ピクリとも動かないジャネットに片膝をつき、花織はボソリと呟いた。
「この国の警察は優秀よ……刑務所の中でたっぷりと反省してきなさい」
花織はゆっくりと立ち上がった。すると、ある一点に花織の視線が集中する。
「ぐおおおおお」
黒い物体が地面をのた打ち回っていた。腹を押さえた勇二である。
「だ、大丈夫?」
罰の悪そうな表情で花織は勇二に近づく。勇二は油汗を滲ませながら呻いていた。
「大丈夫じゃねえ……お前……スーツ越しに衝撃が突き抜けてきたぞ……」
花織は「やっぱり」と苦笑しながら頭を掻いた。勇二とジャネットの身体は密着していた状態だったので、もしかしたらと思っていたが本当にそうなったらしい。
勇二はうつ伏せの状態からごろんと仰向けの状態になった。両手で腹を押さえつけ、花織の顔を苦々しく見上げる。
「これも……空手の技なのか……」
掠れたような声で尋ねた勇二に、花織は一拍の間を置いて答えた。
「〈
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