第33話

「正美、ここから絶対に動かないでね」

 小刻みに身体を震わせている正美にそう言付けた花織は、フォークリフトの屋根を伝って颯爽と飛び降りた。ふわりと地面に着地した花織は、入り口の近くで片手を腰に添えている金髪の女性を睥睨する。

「まず確認したいんだけど、アンタ言葉は通じる? Do you speak Japanese?」

 金髪の女性はこくりと頷く。

「of course、喋れますよ」

 言葉が通じることに安心した花織はふうと息を吐くと、彼女の足元に横たわっている勇二に視線を向けた。

 その視線に気づいたのか、金髪の女性は天使のような微笑を見せた。

「ご安心を、彼には少し眠ってもらいました。命に別状はないはずですよ」

 そう言うと金髪の女性は勇二を跨いで花織に近づいてきた。約五メートルの距離で立ち止まる。

「こうして面と向かって話すのは初めてですよね、【一番】弓月花織さん」

 チッと花織は舌を鳴らした。

「そうね。できれば納得いく返答を期待するわ。【百二十三番】ジャネット・オーランド」

 そうである。廃材置き場に突如として現れた金髪の女性は、本戦トーナメント出場者の一人であったジャネットであった。直接話をしたことはもちろん皆無だったが、開会宣言を聞くために整列していたとき隣にいたので外見と名前は見知っていた。

 そして花織にはもう一つ理解したことがあった。

「大道寺清心を狙う二人の殺し屋がいるって聞いたけど、それってあそこで気絶している馬鹿とアンタのこと? 確か名前は〈フレイ〉と〈フレイヤ〉だっけ? どっちがどっちかは知らないけど」

 そのとき、ジャネットの表情がかすかに曇った。しかしすぐに元の微笑に戻る。

「その名前を知っているということは単に迷い込んだわけではなさそうですね。それにどんな手段を使ったのかは知りませんが、〈フレイ〉を倒すとはさすが本戦トーナメント出場者……ということは生かして返すわけにはいきませんね」

 その瞬間、ジャネットの身体が流水と化した。決して動作自体は速いわけではなかったのに、気がつけばジャネットの身体が瞬間移動したかのように顔前に迫っていた。

(――なッ!)

 花織は驚愕した。すすす、と氷の上を滑るように移動してきたジャネットは、呼び動作もなしに花織の顔面に向かって鋭い手刀突きを放ってきたからだ。

 それでも花織の身体はすでに動いていた。攻撃を仕掛けられたことに意識を覚醒させた花織は、真っ直ぐ突かれてくる手刀を受け流そうと手を伸ばした。このまま相手の手刀突きを絡め取り、外側に受け流す。そう花織の思考と身体は働いていた。

 しかし、花織の読みと動作は見事に無為に終わった。

 ジャネットが伸ばした手刀突きは囮だった。左手で放たれた手刀突きに花織の右手が触れた刹那、ジャネットはさらに踏み込んできた。

 バシンッ! と強烈な音が鳴り響いた。ジャネットは空いていた右手で花織の頬に強烈な平手打ちを放つと、瞬時に摑まれていた左手自体を回転させた。

 その回転力に花織の右手が大きく外に弾かれると、完全に身体が自由になったジャネットは即座に花織の側面に回り込み、脇腹に肘打ちを放つ。

 ジャネットの攻撃はさらに続いた。側面から背後に回ったジャネットは、花織の後頭部に裏拳を放ち、そして止めとばかりに背中全体に体当たりをしたのである。

「ぐッ!」

 花織は喉の底からくぐもった声を上げた。身体の各部に激痛が走り、身体が大きく前方に吹き飛ばされる。地面を何度も転がった花織は、倒れていた勇二の身体に当たってようやく止まった。

(――何……今の連続攻撃は?)

 朦朧とする意識をはっきりとさせるために頭を振ると、すぐ横に仰向けになっている勇二の顔があった。左頬が右頬よりも二倍近く膨れており、口元からはだらしなく涎が零れ出ている。

 とりあえず勇二の命が危険な状態でないことに安堵した花織は、全身に走る痛み――とりわけ脇腹に走る痛みに顔を歪めながら立ち上がった。

「そうそう、これくらいで倒れていては本選トーナメントに出場しても一回戦で負けてしまいますよ」

 微笑は余裕の表れなのか、ジャネットは軽く両腕を組みながら優雅に佇んでいた。まるでファッション雑誌の表紙から抜け出てきたような気品すら感じられる。

 花織は両拳を硬く握り締めると、自流の構えであるナイファンチ立ちを取った。

「ご忠告どうも。でもね、これぐらいで倒れるほど生半可な鍛え方はしてないのよ」

 半分は虚勢であったが、そう口で断言しなければ意識が途切れる可能性もあった。

 無理もなかった。今日だけでも十人以上の人間と戦い、体力も本来の半分しか残っていなかった。そしてその半分の体力も、先ほどの拳銃使いと対峙したせいで大幅に削られてしまった。正直、身体を激しく動かすだけでも辛い。

 ジャネットは一度だけ口笛を吹いた。

「まだ若いのに随分古風な構えをするのですね」

 そう言ったジャネットは組んでいた両手を解き、自流の構えを取った。

 両手の指をピンと揃えると、右手を目線の高さにまで持ち上げ、その右手の肘下に左手の指をつける。上半身だけは正面に、しかし下半身は半身であった。前に伸ばした右足の膝と、後ろに伸ばした左足の膝とを重ね合わせるように立っている。

 花織はジャネットが取った独特な構えを見て、脳裏にある武術の名前が浮かんだ。

 八卦掌。清朝末期に董海川という謎の武術家によって創始された中国武術である。

(金髪の外国人が中国武術か……でも、実力は本物ね)

 心中で毒ついた花織だったが、今の時代に母国の格闘技だけに執着する人間は少ない。現に日本でもボクシングやタイの国技であるムエタイ、ブラジルのカポエラやインドネシアの伝統武道であるシラットなんてものすらも学べる。

 これに比べたら外人が中国武術を得意とするのは別段驚くほどでもない。しかし、よりによって八卦掌とは――。

 花織の身体に緊張が走る。すでにウェアの中身は汗だくになっていた。

 数多ある中国武術の中でも革命児とも呼ばれた八卦掌。流派の名前にも「拳」ではなく「掌」の一字がつき、その独特な鍛錬法や高度な実戦性は聞き及んでいる。

 花織は鼻から空気を取り込むと、ふっと鋭く口から吐いた。と同時に地面を蹴り込んでジャネットに踏み込んでいく。下から相手の懐に潜り込むように鋭く、深く。

 間合いは一瞬で詰まった。

 まったく微動だにしないジャネットの顔面を狙って突きを放つ。拳を脇に引いてから腰の回転を加えて繰り出す正拳突きとは違い、ボクシングのジャブのように腕の振りだけで素早く放つ刻み突きである。

 腰の回転を加えない分威力は落ちるが、その分速度は上がる。牽制のつもりで花織は刻み突きを放ったが、鼻先に完璧に決まれば骨が折れるかもしれない。

 閃光のように光速で放たれた刻み突きが、ジャネットの顔面に深々とめり込く。端正な顔が鼻を中心に歪にへこみ、鼻血が勢いよく噴出される――はずであった。

(――外された!)

 常人には見切れない刻み突きが虚しく空を切った。ジャネットに難なくかわされたのである。しかし花織はすかさず追撃を放つ。

 花織の目線と意識は、自分から見て右側に逃げたジャネットを追いかけていた。だからこそ花織はかわされた刻み突きを素早く戻すと、予め用意していた右正拳突きをジャネットに向けて繰り出した。さらに踏み込んだ位置からの正拳突きである。さすがにこれはかわせないだろう。

「ふふふ」

 攻撃の最中、不気味な笑いが聞こえた。ジャネットの笑い声である。

 一撃で勝負を決しようと放った渾身の右正拳突きであったが、ジャネットにとってはまさに笑いが零れるほどの粗末な攻撃でしかなかった。

 腰の回転力と手首の返しが見事に合致した正拳突きをジャネットは左手の甲の部分で受け止めた。いや、受け止めたのは一瞬である。

 ジャネットは受け止めた手をそのまま攻撃として繰り出してきた。花織の肩の付け根にジャネットの手刀突きが突き刺さる。

 花織は右腕全体に走った激痛に歯を食い縛りながら、今度はジャネットの顎目掛けて膝を曲げずに蹴る上段前蹴り上げを繰り出した。

 真下から一直線に突き上げてくる蹴りにさすがのジャネットも驚いたのか、後方に大きく跳んですかさず八卦掌の構えを取る。もちろん、顎には命中しなかった。

(スケートのような特殊な歩法と掌を中心にした攻撃が見事に一体化している)

 右肩の付け根を揉み解しながら、花織は必死に八卦掌の特徴を思い出す。だが花織が思い出すまでもなく、ジャネットは八卦掌の特徴を身体で見せてくれた。

 ジャネットは一切構えを崩さないまま、花織を中心に円を描くように歩き出す。

〈走圏〉であった。速すぎず遅すぎず、目で追っていけば相手の術中にはまってしまうような独特な歩法である。

(マズイ……)

 完全に囲まれた。もちろん大人数で囲まれたわけではないが、ジャネットの〈走圏〉は大人数で囲まれたような圧迫感があった。もし下手に攻撃を繰り出そうとすれば間違いなく手痛い洗礼が下される。

 それ以上に花織は下手に動けなかった。ジャネットの接近戦の技術がズバ抜けている。

 武術の本質には『一発で相手を倒す力を持つ』と『相手に必ず攻撃を当てる』という二つの到達目標がある。しかしこの二つの到達目標に近づくにつれ『一発で倒す力を相手に当てられる距離に近づく』という過程目標ができてくる。これはつまり接近戦用の技術を磨くことであり、実際に中国武術は何よりも接近戦に重点を置いて鍛錬をする。

 そして八卦掌は接近戦用の技術にかけては比類なき力を発揮する武術であった。

 明けても暮れても〈走圏〉で功夫を練り、虚実を巧みに入れて攻撃を仕掛けてくる。しかもそれは近距離になればなるほど最大限に威力が発揮される。

(厄介だわね。でも、こっちも多少なりは接近戦に自信があるのよ)

 相手の流派が完全に判明すると、花織は練り上げた〝気〟を丹田に落として心身を落ち着かせた。体内に存在する無数の気脈が覚醒し、それは脳にも働きかける。

 神経伝達物質であるアドレナリンやエンドルフィンが脳内から分泌され、花織の痛んだ身体を一時的だが完全な戦闘態勢に整えた。後頭部や脇腹の痛みが嘘のように晴れ、全身から立ち昇るような闘志が溢れてくる。

 ぐるぐると回っていた〈走圏〉からジャネットが攻撃を仕掛けてきた。

 花織はすぐに振り向いた。気配は真後ろから感じてくる。

 ジャネットは踏み込んできた左足と同時に左手の掌を突き出してくる。「移動」と「攻撃」が見事に一体化して繰り出される八卦掌の〈穿掌〉と呼ばれる技であった。

 だが全身が一本の刃のように統一されたジャネットの攻撃にも花織は臆さなかった。

 花織は冷静にジャネットの〈穿掌〉を見極めると、ナイファンチ立ちから瞬時に違う構えに移行する。

 両足を漢字の「八」になるような内八字立ちに構え、両手は掌の形に開く。そして右手は指が上に向くように腰に引き、左手は指が下に向くように腰に引く。

 花織が構えを変えたにもかかわらず、ジャネットの攻撃には些かの迷いもなかった。自分の手を刃物と見立て、花織の顔面に鋭く伸びる〈穿掌〉を放つ。

 その〈穿掌〉が花織の顔前に間近まで迫ったとき、花織の双眸がギラリと輝いた。

「ふッ――」

 花織の口から鋭い呼気が吐かれた刹那、花織の両腰に引かれていた掌が空中に跡を残すほどの速度で円の軌道を描いた。

 次の瞬間、攻撃を放ったはずのジャネットが大きく後方に飛んだ。自分で飛んだのではない。花織の反撃に見舞われた結果であった。

 それでもジャネットは地面に倒れるまではいかなかった。何とか足を踏ん張り、額を押さえつけながら顔を下に向けている。

(――どうだ!)

 心中で花織は堂々と両手を突き上げてガッツポーズをした。

 今の攻防は説明するとこうだ。

 ジャネットの〈穿掌〉が花織の間合いに無断で侵入した際、ナイファンチ立ちの構えから回し受けの構えに移行していた花織は、ジャネットの〈穿掌〉が喉元に突き刺さる寸前に右掌を円の軌道に動かして外に受け流した。

 それだけではない。右掌は下から上に大きく円を描くのに対して、左掌は上から下に大きく円を描いていた。だからこそジャネットは右掌で〈穿掌〉を受け流された瞬間、同時に動いていた左掌で額に強烈な掌底突きを食らってしまった。

〈先の先〉を取ったジャネットに対して、花織の〈後の先〉が決まった瞬間であった。

「どうしたの? 殺し屋ならこんな程度で戦意が喪失するはずないでしょ」

 そう言うと、すぐさま花織はナイファンチ立ちに構え直した。

 一流の使い手は戦闘に対する順応性が並ではない。思わぬ反撃を食らったジャネットにしても、おそらくもうこの戦法は通用しないだろう。一度成功したからといって馬鹿の一つ覚えで同じ戦法を取るなど愚の骨頂である。そんなことをしたら次に思わぬ反撃を食らうのはこちらの番かもしれない。

「ふふふふ……」

 ナイファンチ立ちに移行するや、顔を下に向けていたジャネットの口から笑い声が聞こえてきた。しかし先ほどのように余裕からくる明るい笑いではない。低く暗い、憤怒の感情を押し殺しても、なお口から漏れて出てしまったような笑い。

(打ち所が悪かったのかしら?)

 小首を傾げた花織だったが、すぐに考えを改めた。

 ジャネットの全身から殺気の暴風が吹き荒れてくる。まるでジャネットを中心に小型の台風が渦巻いているような感じであった。実際には室内にいるので風など感じるはずはないのだが、鋭敏に研ぎ澄まされた花織の皮膚感覚は不可視の風を如実に感じていた。

 達人は極限まで練り上げた〝気〟を体外に放出する〈気当たり〉ができるというが、ジャネットから感じる迫力はまさにこの〈気当たり〉であったかもしれない。

 ジャネットはゆっくりと顔を上げた。笑みはすでに消えている。

「つくづくこの国は不愉快な人間が多いわね。二年前もそうだった。後一歩で計画が成功するというところで邪魔が入った。そう……今の貴方と同じ空手使いによって」

「――!」

 衝撃と戦慄が同時に走った。

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