一章 画家と画商
「バッコスの乙女とアレキサンドルの夕暮れが売れたぞ」
画商のカール・シュナイダーがそう言いながらアトリエにやってきたのはとある夏の昼下がりであった。
「ほう。バッコスが売れるとは思わなかった」カンバスに向かい絵筆を握ったまま、ヨアヒム・ランゲは素っ気なく応えた。振り返りもしないその絵描きの背中ごしに画商はカンバスを覗き込む。
「人魚か。それにしちゃ随分と暗い絵だな」
画家はエメラルド・グリーンをくすませたような絵の具を人魚の両耳のかわりに生えているヒレに塗り重ねながら言う。
「元来、人魚というのは海の魔物なんだ。それを作家のアンデルセンが自身の苦い人生体験のひとつの克服として昇華した。それがあの気高い人魚姫の物語というわけさ」
そう言いながら筆を持ち替え、今度は人魚の肌に灰緑の絵の具を塗り重ねていく。
「……あまり良い出来になりそうにないな」画家は独り言ちた。成程、確かにその絵は荒れ狂う波間に漂いながら船を沈めんとする恐ろしい海の魔物というモチーフにしては、恐ろしさや不気味さというよりも、どこか儚く虚無的なものがある。彼の描く絵には概ねそんな雰囲気が共通していた。
「なあ、ヨアヒム」画商であり古くからの友人でもあるカールは問いかける。
「まだ人物画を描く気になれないか?」
「……」 画家は答えずに椅子から立ち上がる。
「先に居間のほうに行っていてくれ。台所を好きに使ってかまわない。勝手知ったるだろ?」
パレットと筆を洗面台に運びながらヨアヒムは友人を促した。
「ああ。俺が旨い
「ハハ。違いない」画家は絵筆を布で拭きながら笑った。
クリーナーと石鹸で絵筆を丁寧に始末したヨアヒムが居間に入ると、既にドリップされた珈琲の良い香りが漂っていた。
「旨そうだな」
「当たり前だ」友人は得意げに言い戸棚からプレッツェルの缶を勝手に取り出して皿に盛る。
「それで」テーブルについたヨアヒムは珈琲茶碗に口をつけながら、バッコスを買ったのはどんな客だと聞いた。
「場末の居酒屋の支配人」
そんなところだろうな。ヨアヒムは苦笑する。
「アレキサンドルの夕暮れはなかなか評判が良かったぞ。最終的には寄宿学校の学長先生がお買い上げだよ」カールは
「どういう意味かな」
「言ったまんまさ。残りの数点は例によって彼女がお買い上げだ」
「……また頭が上がらなくなるな」
「女に勝てる男なんていないさ」ふたりの男は笑いあった。
「それより……」画商が口を切り、二人の会話は他愛ない世間話となった。
カール・シュナイダー。このやや
対して画家。ヨアヒム・ランゲ。先祖代々からの山林とそれを切り開いた土地を所有する資産家の息子で、その名の通りスラリと背が高くゆうに6フィート以上(188cm程)はあるだろう。明るい所に出ればその輝く金髪と蒼い眼は完璧なアーリア人種のそれだった。そんな彼だが目立つことを嫌い口数も少なく、学生時代も級友とサッカーをするでもなく流行りの歌姫やゾーリンゲンのナイフの話題に興じるでもなく、授業と食事以外は殆ど自室か美術室に篭ってカンバスに向かっていた。
それで悪童でならしたカールはこの資産家のお坊っちゃまをからかってやろうと、ある日美術室を訪った。だがそこで悪童が目にしたのはあの青白い優等生ではなかった。カンバスに向かった彼の全身からは見ているこちらが圧倒されるほどの生気を放っていた。そして何よりカンバスに描きつけられているミューズの絵。それは決して神々しく気高い女神ではなく、本来の芸術というものが持つ狂気。
カールは我知らず拍手していた。その突然の音に当然驚いたヨアヒムは何だよ?とだけ声を発した。
「素晴らしい!凄いじゃないかヨアヒム!?お前天才だよ!」そう言いながらいきなり肩を
後に画商となるカール・シュナイダーには自分でも知らずにいた確実な審美眼があったのである。
そんな旧知の間柄の二人である。だからこそカールは歯痒いのだ。目の前にいる友人。ヨアヒム・ランゲがその本来の力を
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