掌編小説『さよならの理由はまだいわない』

マスターボヌール

ちずるちゃんの決意





「おかあさん、ちずるね、がんばるの!」


五歳のちずるは小さな拳を握りしめて、病院のベッドで横になるお母さんに向かって宣言しました。お母さんの顔は少し青白くて、いつもより痩せて見えるけれど、ちずるに向ける笑顔はいつもと同じように優しくて温かいものでした。


「ちずるちゃんは何を頑張るの?」お母さんが小さく微笑みながら尋ねます。


「えーっとね、えーっと...」ちずるは一生懸命考えました。「おかあさんが元気になるまで、ちずるが家のことするの!お料理も、お洗濯も、お掃除も!」


「まあ、ちずるちゃんったら」お母さんはくすりと笑いました。「でも危ないことはダメよ?お父さんと一緒にするのよ」


「はーい!」


ちずるは知りませんでした。大人たちが交わす難しい言葉の意味も、なぜみんながときどき悲しそうな顔をするのかも。でも一つだけ分かることがありました。お母さんを笑顔にしたい、ということ。




次の日から、ちずるの「がんばり生活」が始まりました。


「おとうさん、ちずるもやるー!」


朝早く起きてきたちずるは、台所で朝ごはんの準備をするお父さんのエプロンの裾を引っ張りました。


「ありがとう、ちずる。じゃあ、パンにバターを塗ってもらおうかな」


お父さんはお風呂場から小さな椅子を持ってきて、ちずるが台所のカウンターに手が届くようにしてくれました。ちずるは真剣な顔でバターナイフを握り、ぺたぺたとパンにバターを塗っていきます。


「できたー!」


パンの表面はでこぼこで、バターがはみ出していましたが、ちずるは誇らしげに完成品を掲げました。


「上手にできたね。お母さんに持っていこうか」


病院でお母さんにバターパンを見せると、お母さんは目を丸くしました。


「わあ、ちずるちゃんが作ってくれたの?とっても美味しそう!」


「ちずるね、お料理覚えるの!そしたらおかあさんが帰ってきたとき、びっくりするでしょ?」


「きっと驚いちゃうわ」お母さんの目が少し潤んでいるのを、ちずるは気づきませんでした。




ある日、ちずるは洗濯物を干すお父さんを見て、自分もやってみたくなりました。


「ちずるもやる!椅子を持ってきてー!」


「そうだね、ちずるちゃんにお願いしようかな」


お父さんはちずるの小さな靴下やハンカチを渡してくれました。ちずるは一生懸命背伸びをして洗濯ばさみを使おうとしますが、なかなか上手くいきません。


「うーん、うーん」


ちずるが悪戦苦闘していると、洗濯ばさみが手から滑り落ちて、ぽとんと地面に落ちてしまいました。


「あー!」


でもちずるは諦めません。また拾って、今度はより慎重に洗濯ばさみを操作します。三回目でやっと、小さな靴下を物干し竿に留めることができました。


「やったー!おとうさん見て見て!」


「やるじゃん!ちずる、ちゃんとできたね」


振り返ると、車椅子に座ったお母さんがそこにいました。この日、お母さんは一時的に家に帰ってきていたのです。


「おかあさん!ちずる、お洗濯できるようになったの!」


ちずるは嬉しくてお母さんの膝に飛び込みました。




ちずるには秘密の計画がありました。それは、お母さんのために絵本を作ることでした。


クレヨンと画用紙を使って、ちずるは一生懸命絵を描きました。うさぎさんの家族の物語です。お母さんうさぎが病気になって、ちびうさぎが頑張ってお世話をする話でした。


「ちずるちゃん、何を描いているの?」おばあちゃんが覗き込みました。


「ないしょ!おかあさんへのプレゼントなの」


ちずるは画用紙を大事そうに胸に抱きました。


絵本は全部で五ページ。文字はまだ書けないので、絵だけの絵本です。でもちずるなりに一生懸命考えたストーリーがありました。


最後のページには、元気になったお母さんうさぎと、にっこり笑うちびうさぎが手をつないでいる絵が描かれていました。




ちずるが絵本を完成させた日、お父さんが少し困ったような、悲しいような顔で話しかけました。


「ちずる、お母さんに会いに行こうか。大事なお話があるんだ」


「ちずる、おかあさんにプレゼント持っていく!」


ちずるは自分の作った絵本を大切に抱えて、お父さんと一緒に病院に向かいました。


病院の部屋に入ると、お母さんは前よりもさらに痩せて、とても疲れているように見えました。でもちずるを見ると、いつものように笑顔を見せてくれました。


「おかあさん、ちずるね、プレゼント作ったの!」


ちずるは嬉しそうに手作りの絵本をお母さんに渡しました。


お母さんは一ページずつ、とても大切そうに絵本を見てくれました。そして最後のページを見たとき、涙がぽろぽろと頬を伝いました。


「とても素敵な絵本ね、ちずる。お母さん、とても嬉しいわ」


「へへへ。ちずるね、この絵本みたいに、おかあさんが元気になったら一緒にお手手つないでお散歩するの!」


お母さんはぎゅっとちずるを抱きしめました。




それから数日後、お母さんはちずるを呼んで、大切な話をしました。


「ちずるちゃん、お母さんはこれから遠いところに行かなくちゃいけないの」


「どこに行くの?ちずるも一緒に行く!」


「ちずるは、お父さんと一緒にここにいてね。でもね、お母さんはずっと、ちずるのことを見ているから」


ちずるにはまだ、その言葉の本当の意味は分かりませんでした。でも、何か大切なことを言われているのだということは感じ取れました。


「ちずる、がんばるよ!お料理も、お洗濯も、お掃除も覚えるの!そしたらおかあさん、早く帰ってきてくれる?」


お母さんはちずるの小さな手を両手で包みました。


「ちずるはもう十分頑張っているのよ。これからは、ちずるらしく、元気で笑顔でいることが一番大切。それがお母さんの一番の願いなの」


「やくそくする!ちずる、いっぱい笑顔でいる!」




春が来て、ちずるは六歳になりました。妻はもういませんが、ちずるは約束通り、今日も笑顔で頑張っています。


朝、お父さんと一緒にパンにバターを塗るのがずいぶん上手になりました。洗濯物を干すのも、小さなものなら一人でできるようになりました。


そして何より、ちずるは新しいことを覚えました。お母さんの写真に向かって、毎日「おはよう」と「おやすみ」を言うことです。


「おかあさん、ちずる今日もがんばったよ!明日もがんばるからね!」


写真の中のお母さんは、いつものように優しく笑っています。


ちずるはまだ「さよなら」の本当の意味を知りません。でもそれでいいのです。小さな心の中で、お母さんとの大切な思い出と愛情が、ちずるを支え続けているのですから。


今日もちずるは、小さな手で大きな愛を抱きしめて、一歩ずつ成長していくのでした。


---


*完*

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掌編小説『さよならの理由はまだいわない』 マスターボヌール @bonuruoboro

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