第6話 過去の傷と再生の光

 明香里の衝動的な情事、七瀬との孤独を埋める密会、そして葵との支配と従順の関係。零は、三人のヒロインとの秘密を抱え、得体の知れない高揚感と、言いようのない罪悪感の狭間で揺れていた。彼の心は、彼女たちそれぞれの「隠された願い」に触れるたびに満たされていったが、同時に、この関係がいつ破綻するのかという、拭いきれない不安も膨らんでいた。


 そんな彼の視線は、体育祭で撮った一枚の写真に注がれた。そこには、一人静かにグラウンドの隅に佇む、月島凛桜の姿があった。零がシャッターを切った瞬間、彼女は零の方を一瞬だけ見て、そして、すぐに目を逸らした。しかし、その刹那、彼女の表情に浮かんだ、心からの、儚い笑顔を、零は見逃さなかった。


 零は、彼女の笑顔に惹きつけられた。それは、明香里の孤独を隠す笑顔でも、七瀬の完璧な笑顔でも、葵の真剣な笑顔でもなかった。ただ純粋に、心の奥底から溢れ出たような、透き通った笑顔だった。零は、彼女のその笑顔の奥に、何か深い物語が隠されているのを感じた。


 数日後、零は意を決して、凛桜に話しかけた。

「月島さん、これ……体育祭で撮った写真なんだけど」


 零が差し出したスマホの画面を、凛桜はちらりと見て、すぐに顔を背けた。

「いらない」


 彼女の返答は、零の予想通りだった。しかし、その声は、拒絶の言葉とは裏腹に、微かに震えていた。零は、彼女の拒絶の理由が、写真に写った「笑顔」にあるのではないかと直感した。


 それから、零は言葉ではなく、写真で凛桜に寄り添い続けた。毎日のように、彼女の通学路の途中に、小さな花を撮った写真をそっと置いておく。彼女の席に、放課後の教室を撮った写真を置いておく。それは、零が凛桜を「見ている」という、無言のメッセージだった。


 ある日の放課後、零は、またいつものように花壇の写真を凛桜の机に置いて立ち去ろうとした。その時、背後から小さな声が聞こえた。

「……なんで、こんなことするの?」


 振り返ると、そこには凛桜が立っていた。彼女の瞳は、零を真っ直ぐに見つめていた。その瞳は、零が今まで見てきた、彼女のどんな表情よりも、生気のない、虚ろな光を宿していた。


「僕が、君の写真を撮りたいから」

「……どうして」


 零は、少し考えてから、正直に答えた。

「君の笑顔が、綺麗だったから」


 零の言葉に、凛桜はハッと息をのんだ。彼女の瞳に、僅かに光が戻る。

「私の……笑顔?」

「うん。体育祭の時、一瞬だけ見えた、君の本当の笑顔。僕は、もう一度それを撮りたい」


 凛桜は、零の言葉に動揺したように、目を伏せた。そして、震える声で、零に一つの場所を告げた。

「……放課後。……人目のない、廃墟」


 彼女が告げた場所は、この街では有名な心霊スポットだった。零は、その場所に込められた、凛桜の過去の傷と、それを乗り越えようとする切実な願いを感じ取った。


 放課後、零は凛桜が指定した廃墟へと向かった。埃っぽい空気が漂う薄暗い空間で、凛桜は零を待っていた。彼女は、普段の身体のラインを隠すような服ではなく、薄手のシャツにショートパンツという姿だった。


「零くん……私、昔、嫌なことがあったの」


 彼女は、ポツリポツリと、過去の性的なトラウマを零に語り始めた。零は、ただ黙って、彼女の言葉に耳を傾ける。


「だから、私……汚れてる。もう、誰にも見つけてもらいたくない」

 凛桜は、零に背を向け、震える声でそう呟いた。


「でも、零くんの写真を見て、思ったの。零くんなら、私のこの汚れた身体を、もう一度……綺麗にしてくれるんじゃないかって」


 零は、彼女の言葉の裏にある、「傷を癒してほしい」という切実な願いを感じ取った。零は、彼女の震える背中に、そっと手を回す。抱きしめると、凛桜の身体は、零の腕の中で、小さく、そして温かく感じられた。


「僕は、君を汚いなんて思わない。君の心も、身体も、とても綺麗だ」


 零の言葉に、凛桜は顔を上げ、零の瞳を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、再び、一筋の光が戻っていた。零は、彼女の頭を優しく撫で、その唇に、そっとキスを落とした。それは、欲望ではなく、ただ純粋に、彼女の心を癒したいという、零の優しい気持ちからくるキスだった。


 廃墟の薄暗い空間で、零と凛桜の身体は、互いの孤独と傷を埋めるように、静かに抱きしめ合う。それは、性的な行為には至らなかったが、凛桜が再び「笑顔」を取り戻すための、最初の一歩だった。そして、零は、彼女の傷を癒すことで、また一つ、自分の存在価値を見つけるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る