第3話 隣国へ行くことにしました
婚約破棄を言い渡されたアシュリーは、その夜にヘイワード邸を抜け出した。しかし、夜道を歩くのは危険だと判断して、公園の垣根の中に身を潜めていた。
やがて朝陽が昇り、明るくなった頃、ようやく腰を上げて歩きはじめた。
朝市がたつ広場は早朝にもかかわらず活気づいていた。一人で市井に出るのは初めてだった。
(三年前まではお母様とよく市場で買い物をしわね、でもその時は侍女も護衛騎士も一緒だったし、なんの心配もなく歩けた)
今はたった一人だ、アシュリーはあの忌まわしい事件に遭って以来、街を歩くこともなくなった。邸から薬草畑の往復は護衛騎と共に自分で騎乗する馬での移動、駆け足で飛ばし景色を楽しむこともなかった。
外の世界は久しぶりなので、平静を装おうとしても不安は隠しきれない、キョロキョロしながら歩くアシュリーは完全に田舎者、自分でもそう見られている自覚はあったので、ひったくりに遭わないよう鞄をしっかり握って歩いていた。
急な家出だったので、先触れを出す余裕はなかったが、隣国へ嫁いだ大叔母を頼ろうと考えていた。会ったとこはないが、母ミシェルとは手紙のやり取りをしており、困った事があれば力になってくれる方だと母から聞かされていた。
母の友人であるバルト夫人のところも考えたが、伯爵家に戻される可能性がある。アシュリーの望みはすべてのしがらみから逃れて自由になることだ。この国から出て、自分の将来をじっくり考えてみたかった。
(これで自由になれるんだわ、家のために決められた人生を歩むんじゃなくて、自分で決めることが出来る、そうよ、恋愛だって自由にできるんだわ!)
引きこもりのアシュリーはよく流行の恋愛小説を読んでいた。ブルーノとの結婚が決まっていた自分には、恋愛なんて無縁だけど、夢見るくらいはイイだろうと思っていたのが、
(恋をしてもいいんだ、夢じゃなくてリアルに運命の出会いを求めてもいいんだわ!)
アシュリーは不安よりも明るい未来を思い描いていた。
(乗合馬車が町外れから出ているはずよね、乗り継いで、十日ほどで国境を越えられるわ。そこまでの費用ならなんとか足りる)
歩き続けてようやく乗合馬車乗り場に到着したのは午後になってからだった。深夜に抜け出して、朝食も摂らずに先を急いだので、一段落すると急に空腹を思い出した。
(さすがに疲れたわ、馬車の時間まで小一時間ね、先は長いし、今のうちになにか食べておきましょう)
ふと目に入った小さな食堂に入った。
お昼時のピークを過ぎた食堂の店内は客もまばらだったので、注文したサンドイッチと果実水はほどなく運ばれてきた。
「お嬢さん、一人なの?」
緊張しながらサンドイッチを頬張っていると、近くの席にいた男性が声をかけてきた。アシュリーは初めて男性に声をかけられてドギマギした。
男性と言うよりまだ少年っぽさが残る十代後半の青年だった。黄金に煌めくサラサラの髪、左目は眼帯をしていたが、右目はサファイアのような瞳が煌めき、端正な顔立ちの美丈夫だった。
(もしかして、これが運命の出逢い?)
アシュリーの胸は期待に膨らんだが、
(……この人)
質素な平民の服装だがどこか気品ある雰囲気のその青年に、アシュリーはどこかで会ったことがあるような気がした。
アシュリーが記憶を辿って見つめていると、
「僕はリフ、ここの常連なんだけど、君は初めて見る顔だね」
穏やかで優しい声が耳心地良く響いた。
「私はアン、乗合馬車の時間待ちに入っただけですから」
名乗られたら返すのが礼儀だが、本名を隠して咄嗟にアンと名乗った。
リフは移動してアシュリーの前に座り、人懐っこい笑みを浮かべながら彼女を正面から見つめた。
「どこまで行くの?」
この距離で男性と見つめ合うのは初めて、美しい青年リフの顔が眩しすぎて、免疫のないアシュリーの心臓は早鐘のように打った。
「ウ、ウイ、ウィルトンの王都ローレンまで」
照れてちょっと言いあぐねてしまったが、リフはほんのり赤面しているアシュリーの反応を面白がるように続けた。
「そんなに遠くまで一人で?」
「ええ、向こうに親戚がいますから」
リフはテーブルに肘をついて顔を近付けた。
(ダメ! これ以上接近したら、心臓がもたない!)
アシュリーは目を逸らそうとしたが、
「綺麗な目をしているね」
その言葉を聞いた瞬間、囚われたように視線が逸らせなくなった。そして俄かに記憶が蘇り、ドキドキしていた心臓が止まりそうになった。
(なぜこんなところにいるの!?)
どこかで会ったことがあるような気がしたのは気のせいではなかった。
かつて同じことを言ったその人物を思い出したアシュリーの身体は緊張で硬直した。しかしこんな場末の食堂にいる人物ではない!と困惑した。
その時、
「おい!」
リフが叫んだ。
アシュリーが足元に置いていた鞄が、いつの間にか持ち逃げされていた。犯人の男が今まさに店から出ようとしているのが見えた。
「泥棒!」
アシュリーは慌てて立ち上がり、ドアから出て行った男を追った。
しかし、ちょうど入って来た長身の男性と鉢合わせしてしまう。
「きゃっ!」
アシュリーが体当たりする形になり、勢いあまって吹っ飛んでしまった。
倒れた時、床に着いた左手首に激痛が走った。
「うっ!」
(折れたかも知れない、でも今はそれよりも鞄を!)
アシュリーは無理に立ち上がったが、予想以上の痛みに手首を押さえて顔を歪めながら蹲った。
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