別れた彼女の服を着た日

別れてから、彼女のことを忘れたつもりでいた。


少なくとも、頭では「もう過去のことだ」と割り切っていたし、毎日の生活に追われていると彼女のことを思い出す余裕もなかった。


けれど、ふとした瞬間に、あの笑顔や声が心の中に浮かび上がってくるのをどうしようもなく感じることがあった。


ある日、部屋の片隅で見つけたのは、彼女がうちに泊まりに来ていたときに忘れていったシャツだった。


薄いブルーのシャツは、彼女が気に入っていたもので、何度も見た覚えがある。


付き合っていたころは、彼女がこのシャツを着て、俺に向かって笑っていた姿が脳裏に焼き付いている。


「捨てるべきか…」と一瞬考えたものの、そのシャツに手を伸ばした瞬間、なぜかどうしても捨てられなかった。


むしろ、それを抱きしめてしまう自分がいた。


そして、気がつくと、そのシャツを手に取ってじっと見つめ、ふとした好奇心から袖に腕を通していた。


「…こんなこと、何やってんだ俺…」


そうつぶやきながらも、気がつけばそのシャツを完全に着ていた。


体に馴染むわけでもなく、彼女の香りがわずかに残っている気がした。


それだけで胸が少し締め付けられるような感覚を覚える。


シャツを着たまま、何気なく部屋を見回すと、彼女が置いていった小さなポーチが目に入った。


中を開けると、色とりどりのメイク道具が詰まっていた。


口紅、アイライナー、ファンデーション、そしてマスカラ…。彼女が楽しそうにメイクしていた姿を思い出しながら、俺はふとした思いつきでそのメイク道具を手に取った。


「まさか、俺がメイクするなんて…」


自嘲気味に笑いながらも、手は自然と動いていた。


まずはファンデーションの瓶を手に取って、彼女がしていたようにスポンジに少しつけて顔にポンポンと叩きつけてみる。


鏡の中の自分に見慣れない感覚が少しおかしくて、思わず苦笑いしてしまう。


次に手に取ったのはアイライナー。


彼女がよく「目のラインが一番大事」と言っていたのを思い出し、目を細めながらラインを引こうとするが、手が震えてうまく引けない。


何度か失敗しては拭き取りを繰り返し、ようやくなんとか線が引けた頃には、目元が少し強調されているように見える。


「次は…これか?」


今度はマスカラを手に取り、まつ毛を持ち上げるように塗り始める。


彼女がやっていた仕草を真似するつもりだが、なかなか難しく、片目だけでかなりの時間がかかってしまった。


それでも、少しずつ鏡に映る自分の顔が変わっていくのが不思議で、なんとも言えない感覚に包まれる。


「こんなに時間かかるものだったんだな、メイクって…」


そうつぶやきながらも、最後に彼女が愛用していた口紅を手に取り、唇にそっと色をのせていく。


軽く塗るつもりが、思いのほか鮮やかな色が乗ってしまい、少しだけ彼女に似た雰囲気が自分に漂ったような気がした。


「…バカみたいだな、俺」


鏡の中の自分を見つめて、思わず苦笑する。


男の自分が、彼女のメイク道具を使って顔を作り上げている姿は、どう見ても滑稽だ。


だけど、不思議と心が満たされるような、温かい気持ちが湧いてくるのを感じた。


それはきっと、彼女が側にいるような錯覚を与えてくれたからかもしれない。


「どうせなら、ちょっと外に出てみるか…」


そう思い立ったのは衝動的なものだった。


部屋の中だけでは、あまりに彼女の思い出が渦巻きすぎる。


外に出れば、少しは彼女の存在から離れられるかもしれない。


彼女の服とメイクを纏ったまま、俺は無意識に玄関のドアを開け、町へと足を運んだ。


外に出ると、心地よい風が肌を撫でる。


少し大きめのシャツが風に揺れ、彼女と一緒に歩いていた時の記憶がよみがえってきた。


街のあちこちに二人の思い出が残っているのだと、歩きながら気づかされる。


道を歩きながら、ふと入ったカフェがあった。


そこは、二人が初めてデートした場所でもある。


懐かしさに胸が痛むが、意を決してそのカフェのドアを開けた。


カウンター席に座り、コーヒーを頼んで静かに待つ。


目を閉じると、隣で微笑む彼女の顔が浮かんでくる。


「お待たせしました。」


店員の声に目を開けると、カップが目の前に置かれている。


その香りをかぐと、自然と彼女のことを思い出し、ため息が漏れる。


コーヒーを飲みながら、彼女との会話を思い出す。


「覚えてるかな、ここで最初に言った『好き』って言葉…」


ふと独り言をつぶやくと、周りの視線が気になり、急いで口を閉じた。


でも、その一言が、何か彼女に対する未練を浮き彫りにしたような気がした。


カフェを出ると、今度は彼女とよく行っていた公園へ足が向かう。


ベンチに座り、彼女と一緒に見た風景をじっと見つめる。


思い出の場所で過ごしていると、自然と彼女が隣にいるような気分になり、なぜか涙が込み上げてくる。


「…なんで、別れちゃったんだろうな」


当時の自分は、彼女に対して素直になれなかった。


お互いに忙しくてすれ違いが多くなり、些細なことで衝突することが増えていった。


そして、最終的にはお互いに「これ以上は無理だ」と諦めてしまった。


それでも、心の奥底では「彼女を忘れたくない」という気持ちが残っていたのかもしれない。


ふと、自分の姿をスマホの画面に映してみる。


そこには、彼女の服とメイクを纏った自分が映っている。


いつもは平凡な自分が、少しだけ特別な存在になったような気がして、どこか不思議な感覚がした。


「あのとき、もっと素直に言葉にできていたら…」


思い出の一つ一つが胸に刺さるようで、思わず手で顔を覆った。


そのとき、後ろから聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「…健太?」


振り返ると、そこには彼女が立っていた。偶然の再会に、驚きと動揺で胸が高鳴る。


「…どうして、ここに?」


「たまたま…用事があってこの辺りに来たの。まさか、健太がここにいるとは思わなかったけど…」


その言葉に、俺は返事ができないまま立ち尽くしていた。


彼女も何かを言いたそうにしているが、言葉を選んでいるようで、静かな沈黙が二人の間に流れた。


俺の格好に驚いているのか、それとも懐かしさがよみがえっているのか、彼女の表情からは読み取れなかった。


やがて、彼女がゆっくりと口を開いた。


「…その服、私のだよね?」


彼女の問いかけに、俺はうつむきながら小さく頷いた。


嘘をつくこともできたかもしれないけれど、何もかも隠してしまうのは彼女に対して失礼だと思ったからだ。


思い出のシャツに袖を通し、メイクまでしてみた理由を説明するには、あまりに情けない気がして、ただ無言で彼女の視線を受け入れることしかできなかった。


「なんで、着てるの?」


その言葉に、俺は言葉を探しながらゆっくりと口を開く。


「…わからない。でも、忘れられなかったんだ。君との思い出が、このシャツに詰まってる気がしてさ…。着てみたら、何かが変わるんじゃないかって、そう思ったんだ」


自分でもなぜそんなことを言ったのか分からなかった。


ただ、彼女に本心を伝えたくて、素直な気持ちを口にした。


彼女は少し驚いた顔をしていたが、やがて柔らかな笑みを浮かべた。


「健太、変わってないんだね。そういうところ、昔から素直じゃなくて、不器用で…でも、そこが好きだった」


その言葉に、俺の胸が一瞬熱くなる。


彼女がまだ俺のことを覚えてくれていることが、少しだけ嬉しかった。


でも同時に、その言葉がどこか遠くから響いてくるようで、少し寂しさも感じた。


「…今でも、好きなのか?」


気がつけば、そんな質問が口をついて出ていた。


自分でも驚くほど、無防備な言葉だった。


だけど、彼女の答えを聞くことができれば、もしかしたらまたやり直せるかもしれない。


そんな期待が心の奥底で膨らんでいた。


彼女は少し困ったように目を伏せ、静かに首を横に振った。


「ごめんね、健太。もう、前みたいには戻れないと思う。でも、こうして会えたのは嬉しいよ。君が今でも私を思ってくれてることも、ちゃんと伝わってきた」


その言葉を聞いた瞬間、胸の中で何かが崩れるような音がした。


彼女に未練が残っていると思っていた自分がどこかで期待していたのだろう。


でも、彼女の言葉で全てが現実に引き戻された。


彼女はすでに前に進んでいて、俺だけが過去に囚われていたのだと気づいたのだ。


それでも、彼女の優しい眼差しに救われた気がした。


彼女は俺の気持ちを受け止めてくれて、そして過去を大切にしながらも、前を向いて歩んでいる。


そんな彼女を見て、俺も少しずつ気持ちを整理していかなければならないと感じた。


「ありがとう、会えてよかったよ」


俺はそうつぶやきながら、最後の勇気を振り絞って彼女に微笑んだ。


彼女も笑顔を返してくれて、それが本当に最後の別れのような気がした。


別れてからも心の中に残り続けた未練が、少しずつ溶けていくような気がした。


その後、彼女と軽く話を交わしてから、お互いに別々の方向に歩き出した。


彼女の後ろ姿が小さくなるまで見つめていると、自然と涙が頬を伝っていた。


けれど、その涙は少しだけ温かく、心が軽くなるような気がした。


家に戻ると、俺は彼女のシャツをそっと脱いでたたんだ。


そして、彼女のメイク道具をポーチにしまいながら、心の中で静かに別れを告げた。


「ありがとう、さようなら」


彼女との思い出を胸にしまい、新しい一歩を踏み出そうと決心した瞬間だった。

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