秘密の夜歩き

深夜の静けさが街を包む頃、彼はそっと家のドアを閉め、外へと足を踏み出した。


頭には黒い帽子を深く被り、顔を隠すようにして歩く。


夜の風が頬に触れると、胸の中で何かが少し軽くなるのを感じた。


外に出るのは怖い。


それでも、女装をして街を歩くことは彼にとって何か特別な意味を持っていた。


「今日も誰にも見られなかったよな……」


彼は心の中でそうつぶやき、周囲を確認する。


夜の闇に包まれた住宅街、街灯の明かりがぼんやりと足元を照らすだけで、人影はほとんどない。


だが、それでも彼は不安だった。


帽子のつばをさらに引き下げて、顔を完全に隠し、早足で歩き続ける。


白いシャツとスカート。


女性らしい装いは自分ではない自分を感じさせた。


普段はまったく別の自分——社会の期待に応える男性として生きている彼にとって、この瞬間だけが自分らしくいられるのだ。


「もし誰かに見つかったら……」


不安が頭をもたげる。


しかしその一方で、深夜の静寂の中でスカートが風になびく感覚、ハイヒールの軽やかな音がコンクリートの道に響く音は、彼に少しの解放感を与えた。


まるで夜だけが、自分を受け入れてくれているかのようだった。


ふと、彼の目にコンビニの明かりが映る。


誰かに見られるかもしれないという恐怖が頭をよぎるが、喉が渇いていた。


彼は少し考えてから、深呼吸をして決意を固めた。


「大丈夫……人はこんな時間にあまりいないはずだ」


彼は帽子をさらに深くかぶり、コンビニへと足を向けた。


自動ドアが音を立てて開くと、中の冷たい空気が彼の体に触れる。


数人の客が店内にいたが、誰も彼に特別な注意を払っている様子はない。


彼は急いで飲み物を手に取り、レジへ向かった。


「……いらっしゃいませ」


店員の声が耳に入ると、心臓が一瞬止まるような感覚がした。


自分が見られている——その思いが胸を締めつける。


しかし店員は特に何も気にせず、淡々と商品のバーコードをスキャンしていた。


「……ありがとうございました」


レジを済ませ、商品を手にして店を出たとき、彼は心の中で深く息をついた。


「なんとかバレなかった……」彼は自分にそう言い聞かせながら、再び夜道を歩き始める。


だが、家に帰る前にもう少しだけこの解放感を味わいたかった。


人気のない公園に足を踏み入れると、彼はベンチに腰を下ろした。


月明かりが木々の間から差し込み、静かな夜が広がっている。


彼は帽子を少し持ち上げ、夜空を見上げた。


「どうしてこんなことしてるんだろうな……」


誰に言うでもなく、そうつぶやく。


彼の中で、答えはわかっていた。


自分が自分でいられる瞬間。


それがこの夜の時間だった。


昼間の自分とは違う姿、違う心。


だが、それを他人に認めてもらうことはできない——だからこそ、夜の闇の中でしか自分を解放できなかった。


「でも……いつか、こんな自分を受け入れてくれる人がいればいいのに」


彼は小さく笑った。そんなことは夢物語だとわかっている。


それでも、心のどこかでその願いが消えることはない。


誰かに理解してもらいたい——この自分の一部を。


そのとき、背後で小さな足音が聞こえた。


彼は慌てて帽子を深くかぶり直し、顔を隠した。


まさか、こんな時間に他の人がいるなんて。


「……あの、すみません」


女性の声が背後から聞こえる。


彼の心臓が一瞬で高鳴る。見られたか? それともただの通行人?


「帽子、深くかぶりすぎですよ。顔が見えなくなっちゃってる」


冗談めいた声に、彼は驚いて振り返った。


そこには一人の若い女性が立っていた。彼の装いを見ているかのように、彼女は微笑んでいた。


「大丈夫。私もよく夜に一人で散歩するの。だから、気持ちはわかるよ」


その言葉に、彼の体が少しだけ緩む。


彼女は彼の姿を見ても、何も不思議に思っていないようだった。


いや、むしろ親しみを感じているかのように話しかけてくる。


「……そうですか。ありがとうございます」


彼は帽子のつばを少しだけ持ち上げて、微かに笑った。


彼女はその笑顔に気づくと、軽くうなずいてベンチの隣に座った。


「夜の散歩って、特別だよね。誰にも邪魔されない、自分だけの時間って感じがして」


彼女の言葉に、彼は小さくうなずいた。


確かに、その通りだ。夜のこの時間は、自分だけが自分でいられる貴重な瞬間だった。


「……でも、怖くないですか? 誰かに見られたら……」


思わず彼の口から出た言葉に、彼女は微笑んだ。


「怖いけど……そんなの気にしてたら、何もできないよ。自分が自分でいられる時間を大事にしたいからね」


その言葉に、彼は少しだけ心が軽くなるのを感じた。


確かに、彼女の言う通りかもしれない。


誰かに見られることを恐れて、好きなことをやめるのは違うのかもしれない。


「……ありがとう。少し楽になりました」


彼は感謝の気持ちを込めて、もう一度彼女に笑顔を見せた。


彼女も満足そうに微笑み返す。


「じゃあ、私はそろそろ行くね。また、どこかで」


そう言って彼女は立ち上がり、軽く手を振って歩き去っていった。


彼はその姿を見送りながら、胸の中に暖かいものが広がっていくのを感じた。


「また、いつか……」


彼は帽子を少しだけ浅くかぶり直し、もう一度夜の散歩を楽しむためにゆっくりと歩き出した。


夜の静寂が再び彼を包み込む中、彼は自分の中で何かが少しずつ変わっていくのを感じた。

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