黒い文字の雨

雨光

盗まれたレシピ

私の指先は、幸福を、巧みに、作り上げることができた。


都心の陽光が溢れる白いキッチン。


美しい器に彩りよく盛り付けられた一皿の料理。


私は、その写真をスマートフォンに収めそして、いくつかの美しい嘘を言葉として添えるのだ。


『旅先の小さな村でインスピレーションを得た私だけのオリジナルレシピです』


SNSのその虚構の庭に私が、その一皿を投じるとすぐに無数の賞賛の花が咲く。


その、数の多さだけが、私の空っぽの心をかろうじて満たしてくれていた。


その日も、私は、いつものようにどこかの料理サイトから、巧妙に盗み出したレシピをまるで自分のオリジナルであるかのように投稿した。


しかし、その日は、いつもと何かが違っていた。


何百という、賞賛のコメントの中に一つだけ異質な棘のような言葉が混じっていたのだ。


『このレシピは私が、亡くなった母から受け継いだ大切な思い出の料理ととてもよく似ています』


私は、その不快なざらりとした言葉を見つけ出すとまるで美しい庭から雑草を引き抜くようにためらいもなく削除しそしてそのアカウントをブロックした。


これで、私の完璧な庭は元通りになる。


そう、信じていた。


しかし、火の手は私が思ってもみなかった場所から上がった。


私が、削除したあのコメントのスクリーンショットがある影響力のあるまとめサイトに晒されたのだ。


『人気料理研究家、盗作疑惑』という扇情的な見出しと共に。


そこから先は、悪夢であった。


私のスマートフォンの画面は黒い悪意の文字で瞬く間に埋め尽くされていった。


それはもはや単なる批判ではなかった。


私の、人格、容姿、学歴、そして過去のすべての投稿その些細な一言一句に至るまでを嘲笑し罵り、断罪する、おびただしい言葉の暴力。


顔も、名前も、持たない、無数の誰かが、私という的を目掛けて一斉に黒い毒の矢を放ってくる。


私は、その、黒い文字の降りやまぬ雨をただなすすべもなく浴び続けるしかなかった。


やがて、恐怖は、スマートフォンのあの冷たいガラスの画面の中から現実の世界へとじわりと溢れ出してきた。


私は、SNSのアプリをすべて削除した。


しかし、もう、遅かった。


部屋のその真っ白なはずの壁に黒いインクの染みのような文字が浮かび上がるのだ。


『嘘つき』『盗人』『恥を知れ』『消えろ』


耳元でいるはずのない無数の人間のひそやかな嘲笑う囁き声が聞こえる。


蛇口をひねると透明な水ではなくどろりとした黒いインクのような粘つく液体が流れ出てくる。


私は、家に、閉じこもった。


しかし、カーテンのその僅かな隙間から外を覗くと街行く人々が皆私の方を指さして、スマートフォンを向けて私を撮影しているように見える。


世界中が、私の敵になったのだ。


私のたった一つの小さな嘘が、世界そのものを私に対する巨大な悪意の塊へと変えてしまった。


追い詰められたその思考の袋小路の中で。


私は、なぜか発端となったあの最初のコメントのことばかりを考えていた。


なぜ、あの女のたった一つのあの静かな言葉が、これほどの巨大なそして超自然的な呪いへと発展したのか。


無数の匿名の悪意とは、明らかに質の違う何か特別な「力」がそこにはあったのではないか。


私は、まるで何かに取り憑かれたようにその女のアカウントを再び探し出し徹底的に、調べ上げた。


そして、いくつかの過去の投稿の中から私はある事実にたどり着く。


その女の亡くなった母親が、かつて北国の小さな雪深い町の公民館で月に一度だけひっそりと家庭料理の教室を開いていた名もない料理研究家であったという事実。


その、瞬間。


私の脳の奥底に封印していた一つの風景が鮮やかに蘇った。


数年前、私が、まだ無名でネタ探しのために日本中を旅していた頃。


訪れたあの寂れた雪国の町。


そして、公民館のあの古い調理室で 優しい手つきで私にその土地の素朴な家庭料理を無償で教えてくれたあの老婆の笑顔を。


そうだ。


私は、あの老婆の人の良い優しさにつけ込みそして彼女の慎ましくしかし愛情に満ちたあのレシピを根こそぎ盗んだのだ。


私は、彼女の人生そのものを盗んだのだ。


ああ、と、私は、悟った。


私を苛むこの執拗な怪異のその本当の正体は、ただのネットの炎上などでは、なかったのだ。


それは、私が、裏切りそのささやかな人生の誇りを踏みにじったあの亡き老婆のあまりにも純粋でそして底なしの深い「怨念」が、ネットという現代の巨大な「呪詛の器」を利用して何百倍、何千倍にも、増幅され私に襲いかかっていたのだ。


無数の匿名の悪意は、彼女のそのたった一つの本物の怨念にまるで鉄粉が、磁石に吸い寄せられるように集まりその養分となっていたのだ。


私が、そのすべての真実にたどり着き愕然と床に膝をついたその時。


部屋の壁に、浮かび上がっていたおびただしい数の黒い文字がすーっとまるで生き物のように集まり一つの文章を形作った。


それは、あの老婆の少し震えたしかし、どこまでも優しい筆跡であった。


『美味しく、できましたか』


その、言葉を見た、瞬間。


私を苛んでいたすべての怪異は嘘のようにぴたりと消え去った。


壁の染みも耳元の囁き声も蛇口から流れる黒いインクも。


しかし、私の心の中からあの老婆の最後の問いかけが消えることはなかった。


私は、SNSのアカウントを削除した。


料理研究家も、廃業した。

すべてを、捨てた。


今は、ただ、都会の片隅の陽の当たらない小さな部屋で誰にも気づかれずに息を潜めて生きている。


時折、私は、キッチンに立つ。


そして、あの、老婆のレシピで料理を作るのだ。


しかし、その料理は、なぜか全く味がしない。


塩の味も、砂糖の甘さも、出汁の香りも、私の舌は、もう、何も感じることができない。


私は、おそらくもう二度と「美味しい」というあのささやかなしかし人間にとって、根源的な幸福の感覚を味わうことはできないのだ。


恐怖は、去った。


しかし、私の魂には、決して消えることのない味気ない永遠の罰が下された。

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黒い文字の雨 雨光 @yuko718

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