夢の終わりにあるものは

翠雪

夢の終わりにあるものは

 毎日、鳥になった夢を見る。物心ついた時からずっと、一日たりとも欠かさずに。


「起きたね」


 微睡みを引っ掻く乾いた声に飛び退いて、ヘッドボードに頭を打つ。痛みで散った眠りの余韻は、生存本能を正確に機能させている。声の主を探してみると、薄暗い部屋のうち廊下に面した一角で、ニットの上着を羽織った青年が膝を抱えて座っていた。暦は七月も半ばだというのに、彼は靴下までウールだ。


 こちらを見据える眼球はほとんど瞬きを挟まず、微笑みかけもしてこない。これが悪夢というものだろうか、と辺りへ視線を巡らせて、鳥の絵ばかりが飾られていると気付く。梟、雀、ペリカン、燕、ニワトリ、鷹に烏にフラミンゴ。人面鳥や、鳥の頭にヒトの身体でチェロを構えたキメラらは常温の肌を粟立たせる。青年の足元には、描きかけらしき鳥の絵と、べっとりと絵の具がついた平筆が雑に放っておかれていた。


「おはよう。気分は?」


 先ほどと同じ声色で投げかけられた質問に、喉が張りついて動かない。寝間着にしているTシャツとハーフパンツが冷たい汗で濡れはじめ、逃げをうとうとする素足が薄いシーツを乱していく。浅くなる呼吸だけが音らしい音として響く中、予備動作をせずに立ち上がった青年が、ベッドの脇に居を移す。まだあどけなさの残る顔立ちは、十代後半のものだろうか。手足は細く長いため、彼を見上げる首がつらい。濃紺の癖毛はちっとも統率がとれておらず、束ごとに好き勝手をしている。


「気分は、どう」


 最悪だよ。


 これが得体の知れない相手でなく、ゼミの同期相手ならそう言い捨てたことだろう。喉を唾で潤して、金の瞳を睨みつける。残念ながら、彼は怯んでくれそうにない。


「……ここは、どこなの」

「ボクの家。キミの部屋」


 彼がベッドに腰掛けて、下半身が揺らされる。僕の左側に座った青年は、やはり顔色を変えないまま、視線で僕の温度を奪う。ヘッドボードの角に肩甲骨がぶつかって、鈍い痛みが続いていく。頬をつねるまでもなく、これは現実であるらしい。


 晴れた朝は底抜けに熱い青と舞い、雨の夜は極寒の水中の覇者となり、嵐の昼は静謐な雲の上の景色を知る。時折は寝坊をもたらす色鮮やかな夢たちは、凡庸な大学生の僕にとって、日々のささやかな娯楽なのだ。昨夜だって、へたれた万年床についたのは日付が変わる前だった。ひとり暮らしの学生にあるまじき健全すぎる就寝は、一分一秒でも長く夢を見るための努力だ。今夜はどんな冒険ができるのかと、遠足前の子どもじみた心持ちで両の眼を閉じたのは、間違いなく壁の薄い六畳のワンルームでのことだった。狭くて居心地良い城が、絨毯の敷かれた不気味な部屋へ勝手に化けられようものか。


「し、知らない。別荘なんか持ってないし、君ともこれが初めてだ」

「忘れられるわけないよ。あんなにたくさん、ボクに食べられてきたくせに」

「何を、言って……」


 彼の左脚がベッドに乗り、上半身が近くなる。間近で見た彼の瞳は満月を映し取ったようで、のっぺりとした明るさからは思考がちっとも読み取れない。骨の浮いた左手が僕の腰元に置かれ、身体と腕とで挟まれる。歪に軋んだスプリングが、元の形に戻ろうと呻き声をあげている。自ら行き止まりに背をつけた愚策を悔いてももう遅く、せめてもの意思表示に顔を背けるしかなくなる。全ての壁に飾られ尽くした鳥たちは、成り行きを凝視するか黙認するかばかりであり、一羽も僕を救わない。


「この絵の数だけ、キミは鳥として生きたんだ。たまに形が変だったけど、それも含めて全部食べた」


 額装された油絵は、ゆうに百を超えている。少なくない枚数の分だけ制作の機会を重ねているというのに、どの絵からも受ける印象が変わらない。底なし沼のように静かで、湿っていて――まるで、死骸が並べてあるかのようだ。


「猫の頃は芸術と縁がなかった反動か、記憶を頼りにキミを描くのは楽しくて。もちろん、今の姿も描く予定」

「僕の前世が鳥で、君は、猫?」

「うん。キミの味を覚えたのに、キミがヒトになったせいで、ご飯が不味くて死んじゃった」


 今も吐きながら生きてる。そう言って瞼を伏せた彼は、僕の手の甲にはしる緑色の静脈を人差し指でなぞり上げる。背筋を走り抜けた悪寒が胃液を食道から逆流させて、乾いた舌の根が酸っぱい。すんでのところで飲み下せば、脳から発される警告が頭蓋の中でこだまする。意識の外で動いたのは、逃走にはうってつけの脚ではなく、二本の腕の方だった。


「ほら、翼だったものは覚えているね。空を飛んでいるキミを捕まえるのは難しくて、ずいぶん苦労をさせられた」

「違う、あれは、あれはただの夢のはず」

「夢の材料は記憶だよ。キミはボクと必ず出逢い、いつもその身を捧げてくれた」


 呆然とする僕を差し置いて、彼の鼻先が首を這う。天然パーマの荒れた毛先が、頬や鎖骨の皮膚を擦る。風呂場の排水溝に素手を突っ込んだ時にも似た、じめつく嫌悪が怒りを奥から呼び起こす。


「キミの、匂いだ」

「よせよっ!」


 突き飛ばした彼の上着がはだけて、肘の内側が露出する。点々と散る青紫色の注射痕は、輸液を入れるためのものか。もつれる足でクイーンサイズのベッドを脱し、扉のない小部屋を次々巡って出口を探す。腰の高さにあった廊下の花瓶を引っ掛けて、低い本棚が濡れそぼる。中身は水ではなかったのか、快感を伴う刺激臭で冴えかけていた思考が澱む。除光液、と芋づる式によぎった恋人の相貌は、桃色の唇や横に並んだ目をもたず、厚い嘴と艶やかな羽毛を首から上に備えていた。黄色の造花が床に散る。


「ああ。困ったな」


 抑揚のない声が、背中にぴたりと貼り付いている。ような錯覚。振り向けば、彼は未だ最初の部屋から出るところ。なぜだかどうにも走りにくくて、腕の振りが大きくなる。Tシャツとハーフパンツの動きが遅れて煩わしい。サイレンはけたたましく鳴り響き、風の音まで混ざりだす。


 花瓶の欠片で切った足が透明な液体を踏みつけるたび、辺りの緑は増えていく。ダイヤチェックの青い壁は魚影の見える海となり、赤と白のストライプはねじれて棒付きキャンディーに。蜂蜜の書斎はどろどろ身体に粘ついて、羽が重くて仕方がない。羽、違う、僕は確かに腕と思った。間違えただけ。そうだ、あれはただの夢なのだ。


 ――本当に?


 奥の奥の奥の部屋に一つきりの窓がある。留め具をがむしゃらに掴み、夜明けが近い外を臨む。街路樹がミニチュアに見える部屋が何階にあたるかなど知らない。窓枠に足をかけて飛び出したその時、僕の両手は、能う限りに大きく広げられていた。


「冷凍庫を空けなくちゃ」


 羽のない翼が空を切り、身体は向かい風を纏う。水平線から昇りつつある太陽は、ひびが鋭くはしるコンクリートを光の余波で熱していた。

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