禁忌を抱く夜
凪野 ゆう
第1話:忘れられない匂いの男
──初めて会ったはずなのに、忘れられない匂いがした。
胸の奥のどこかを、そっと撫でられたような、説明のつかない感覚。
地方のクライアントとの打ち合わせを終え、東京駅に着いたのは夜の九時。
真っ直ぐ帰ればよかったのに、私は重たい資料のバッグを抱えたまま、銀座のホテルラウンジへ足を向けていた。
桐谷璃子、二十八歳。
広告代理店の営業。
成果と数字に追われる毎日で、時々こうして静かな場所でひとりの時間を持たないと、心が空っぽになってしまう。
ラウンジは、シャンデリアの光が柔らかく、低いジャズが流れていた。
革張りのソファに身を沈め、私はグラスの水を指で回す。
窓の外では雨が舗道を濡らし、街灯の光をぼやけさせている。
そのとき、背後から靴音が近づいた。
低く、ゆったりとしたリズム。
視界の端に、黒いジャケットの袖口から覗く骨張った手首が映った瞬間、胸の奥でざわめきが広がった。
「ここ、いいですか」
顔を上げると、背の高い男が立っていた。
切れ長の目尻と深い二重。
整った輪郭に、額へ無造作にかかった前髪。
白いシャツに黒のジャケット、控えめな香水の匂いが、雨上がりの湿気と混じり合う。
頷くと、彼は私の向かいに腰を下ろし、バーテンダーに軽く顎をしゃくった。
「桐谷さんですよね」
──名乗っていない。
心の奥で、ひやりとした感覚が走る。
「……どこかでお会いしましたか」
問いかけても、彼はただ微笑むだけだった。
視線を合わせた瞬間、息が半歩遅れて届くような、奇妙な間が生まれる。
その笑みが、なぜか遠い記憶の奥をくすぐった。
名前は高槻聖司。
仕事は投資ファンド関連とだけ言い、あとは私に質問を重ねてくる。
好きな食べ物や休日の過ごし方──初対面のはずなのに、妙に距離の近い会話だった。
気づけば、グラスが空になり、時間の感覚が薄れていく。
ラウンジを出る頃には、雨は強く降り始めていた。
濡れた舗道に街灯の光が滲み、二人の影が長く伸びる。
「もう一杯どうですか」
誘われ、私は小さく頷いた。
気づけば、ホテルの客室階へ向かうエレベーターの中にいた。
密閉された空間に、彼の香りが満ちる。
心臓が鼓動を速め、呼吸が浅くなる。
横顔を盗み見ると、薄い唇の端がわずかに上がっていた。
部屋のドアが閉まる音と同時に、肩を抱かれる。
熱が肌越しに伝わり、全身が緩む。
その匂いは、なぜか懐かしい──けれど理由はわからない。
唇が触れた瞬間、すべての思考がほどけていく。
背中をなぞる指先、耳元に落ちる声。
「……やっと会えた」
意味を尋ねる前に、口づけで塞がれた。
雨音と心臓の音が混ざり合い、境界が消えていく。
その瞬間、自分の中の理性が音もなく崩れた。
その夜、私は高槻聖司と一線を越えた。
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