第3話 顔のない給食当番
昼のチャイム──は、鳴らなかった。
配膳台が教室の後ろに運び込まれる。音もなく、いつの間にかそこに置かれていたそれを合図に、生徒たちはゆっくりと立ち上がった。
静かに、列を作る。誰も話さない。給食当番も、まるで機械のように、無表情のままトレーに食器を並べていく。
俺は修二と一緒に列に並び、炊きたてのごはん。甘酢がかかった鶏肉のフライ。 にんじんとブロッコリーの温野菜。 白っぽいスープ。四角い牛乳パック。丸いゼリー。
朝俺が教壇に出現させた、まんま一緒のメニューを受け取ると、自分の席へ戻ろうとした。
──が。
「誠一くん、ここ、ここっ」
リリの声に振り向くと、彼女はすでに自分の席を離れて、俺の隣の誰もいない席の机をぽんぽんと笑顔で叩いていた。
「ここで、いっしょに食べよ?」
その無邪気な誘いに、俺は思わずトレーを持ったまま固まる。
「……ああ、うん」
ようやくそう返すと、リリは嬉しそうに椅子を引き、自分の分を並べ始めた。
「よっ、誠一。またイチャついてんな?」
ひょいと現れたのは、川原佳子。俺たちのクラスでは面倒見のいい姉貴分だ。
「イ、イチャついてなんかないから!」
リリが顔を赤らめながら、反射的に否定する。その早さに、俺も少し驚いた。
佳子はにやにやしながらリリの隣に座り、箸を割りながら言う。
「いやいや、あれだけ分かりやすくリリちゃんに構われてて、あんな嬉しそうにしてたら、そりゃ周りから見たらもうカップルだって思われてもおかしくないっしょ」
「えっ、カ、カップル!?」
リリが大げさに口を開き、驚いたように俺の顔を覗き込んでくる。近い。
「誠一くん、どうなの?」
その目を真正面から見られると、思考がフリーズする。顔が熱い。
「な、なにが……っ」
焦って目をそらすと、佳子がケラケラと笑った。
「ほら~、図星じゃん。顔、真っ赤」
「うっせぇ……」
俺はゼリーの蓋をめくりながら、視線を逸らす。銀紙のきしむ音が、妙にうるさく感じた。
リリはくすくすと笑っていた。茶化すような笑いじゃない。少しだけ照れているような、でもどこか楽しげな笑顔だった。
「ま、いいじゃん。私、応援してるからね?」
佳子はそう言って、からかうでもなく、ほんの少しだけ真面目なトーンで笑って見せた。
「お似合いだと思うよ。ふたりとも、どこか似てるし」
「どこがだよ……」
「うーん、なんかさ、周りとちょっとだけズレてるとこ?」
佳子は笑いながら、自分のスープをひと口すすった。
「悪い意味じゃなくてね。リリちゃんも誠一も、敏感っていうか……逆に、いまのこのクラスで“ちゃんとしてる”のって、あんたらと、他何人ぐらいしかいないじゃん?」
その言葉に、リリが目をぱちぱちと瞬かせる。俺は返す言葉が見つからなかった。
「……そうなのかな?」
ぽつりとリリが呟いた。
リリは、少しだけ俯いて──けれど、顔を上げて言った。
「……一緒にいると、安心するよ。なんとなくだけど」
その一言が、やけにまっすぐ胸に刺さった。
俺は何も言えずに、箸を握りしめた。
食器を置いたトレーの上には、ゼリーの容器が残っていた。
銀紙を丸めてそっと脇に寄せると、俺は箸をそろえ、立ち上がる。
教室の後ろ──配膳台のそばには、すでに列ができ始めていた。
誰も喋らない。私語もなく、咀嚼の音すら響かない。
みんなが一斉に立ち上がり、無表情で食器を手に、同じ速さで歩いていく。
俺も佳子も、何も言わずにその流れに従った。
──違和感が走ったのは、そのときだった。
配膳台の横に立っていた“給食当番”の女子の前を、
ふわりと──何か、黒い“点”のようなものが横切った。
まるで小さな虫みたいに見えたけど、違った。
それは空間そのものが抜き取られたような、色のない黒。
生徒の肩をなめるように漂い──彼女の顔をかすめた。
次の瞬間。
──給食当番の“顔”が、なくなっていた。
目も、鼻も、口も。
すっと、アイロンをかけた布のように、滑らかに消えていた。
そこにはただ、何もない肌があるだけだった。
表情もなく、視線もなく、声もない。
「……っ」
息が止まりそうになる。
だけど──列は止まらない。
前に並んでいた生徒は、その“無顔”の少女にトレーを渡す。
少女も、何事もなかったようにそれを受け取る。
誰も騒がない。叫ばない。気づいている様子すらない。
その滑らかな“顔”がこちらに向いたとき、俺は思わず一歩だけ後ずさった。
そして、俺の番が来た。
声を出せなかった。
手が震えた。
だけど、俺は黙ってトレーを差し出した。
その手が、無言でそれを受け取る。
「……ねえ」
すぐ後ろから、小さな声が届いた。
振り返ると、佳子がいた。
「今の、見たよね?」
すぐ後ろにいた佳子が、低く問いかける。
俺は、小さくうなずいた。
「……何があったの?」
その問いに、言葉が詰まる。けれど、正直に答えるしかなかった。
「わからない。急に……あの当番の子が、誰かわからなくなった」
佳子は黙ったまま、前を見つめていた。
「……前から、いたっけ?」
「それも……わからない」
自分の声がやけに遠くに感じた。
記憶をたどっても、白衣の彼女が給食当番をしていた姿が、どうしても思い出せない。
ただ、“いたような気がする”だけで、名前もさっきまであったはずの顔も、何一つ浮かんでこなかった。
教室の中では、いつも通りの作り物めいたざわめきが、ゆっくりと戻り始めていた。
その中心で、俺たちだけが取り残されたような、奇妙な静けさの中にいた。
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