第2話 異常はありません

「よう、誠一。お前も早いな」


 突然かけられたその声で、張りつめていた思考の膜が破れる。

 振り返ると、教室の入り口に立っていた人間がいた。


 高城修二。


 俺の親友だった。


「早くねえよ。ていうか、お前が遅いんだ」


 そう返すと、修二は苦笑しながら近づいてきて、俺の前の席に腰を下ろす。

 座った瞬間、椅子の脚がギッと音を立てた。


 ──この教室で、こんな些細な音がやけに生々しく響く。


「リリちゃん、まだ来てないのか?」


「知らねぇよ」


「なんでだよ。お前、仲良いじゃん」


昨日もリリは、勝手に俺の上履きを並べてくれてたらしい。「なんかズレてたから整えといたよ」って、ニコニコしながら。

俺は別に頼んでないし、ズレてた覚えもないんだけどな。


「俺が聞きたいぐらいだよ。何なんだろうな、あれ」


「嬉しいくせに。まんざらでもないんだろ?」


「うるせぇな」


 修二がニヤニヤしながら、続ける。


「なんかさ、リリちゃんの給食チェック、まだ続いてるらしいよ。昨日の五目ごはんに星一個半。で、牛乳が“攻めてる”ってさ」


「攻めてる牛乳……?」


「いやもう、意味わかんねぇよな。でも本人めっちゃ楽しそうだったぞ」


 そう言って肩をすくめる修二に、俺は苦笑を返した。


 窓の外にちらりと目を向けた。

 陽射しはいつも通り、やさしく教室を満たしている。



「……てか、お前、今日日直じゃなかったっけ?」


「え?」


 修二が目を瞬かせた。


「いや、たしか黒板のとこに貼ってあったろ。“高城修二・相馬誠一”って」


「……マジで?」


 重たそうに立ち上がって、教室前方の掲示を確認しに行く修二。


 数秒後、やけに静かな声で戻ってきた。


「……あってたわ」


「おい」


「ていうか、お前もじゃねぇか。相馬誠一。しれっと俺にだけやらせようとしたな?」


「いや、俺はお前がやらかすのを見届けたかっただけだよ」


 くだらないやり取り。いつも通り──のはずなのに。


  「……で? 日直って、何やるんだっけ?」


 俺の言葉に、修二が少しだけ間を置いてから言う。


 「黒板に天気と、あと……日誌?」


 「日誌って、あの日誌か?」


 黒板の脇に備え付けられた、小さなキャビネット。その中に、日誌と呼ばれるファイルが綴じてある。

 何のための記録なのかは、誰も説明してくれなかった。ただ「書くもの」だというだけで。


 「とりあえず黒板からだな。天気、書くか」


 そう言って俺は立ち上がり、前へ歩く。


 背後では、修二が椅子を軽く引く音がした。教室の中に、その音だけが生々しく響く。


 黒板の隅、天気を書く欄に手を伸ばしかけたとき、俺は思わず足を止めた。


 ──もう、何かが書かれていた。


 そこには、白いチョークで、ひらがなでこう記されていた。


 『あめ』



 窓の外を見る。均等な形をした雲、どこか作り物めいた空が広がっているが、間違いなく天気は快晴だ。


 「……晴れてるよな、今日」


 「うん、俺の目が確かならな」


 隣に来た修二が、皮肉っぽく言う。


 「じゃあ、なんで“あめ”なんだよ」


 誰が書いたのか。それよりも、なぜ間違ったまま放置されているのか。誰も指摘しなかったのか──いや、そもそも、これを“間違い”だと認識する人間がいないのか。


 俺は役割を無くしたチョークを元に戻し、しばらくその文字を見つめたまま動けなかった。


 「……ま、とりあえず日誌も確認しとくか」


 修二の言葉に促され、キャビネットから薄い青いファイルを取り出す。


 それは、A4サイズのリング式バインダーだった。表紙には黒いマジックで、雑に「にっし」とだけ書かれている。


 表紙をめくる。最も新しいページを開く。


 そこには──


  『本日も異常ありません』

  『本日も異常ありません』

  『本日も異常ありません』

  『本日も異常ありません』

  『本日も異常ありません』

  『本日も異常ありません』

 


 その文言が、何十回も、繰り返し、書かれていた。


 びっしりと、ページの隅から隅まで。罫線も無視されて、上下左右の余白までも埋め尽くすように。


 文字はすべて同じ筆跡だった。几帳面なわけではないが、不気味なまでに「揃って」いた。


 俺たちは、黙ったままそれを見下ろしていた。


 修二が、小さく息をつく。


 「……何が、“異常ありません”だよ」


 修二が吐き捨てるように言って、バインダーを静かに閉じた。


 チッ、と小さな音を立ててリングが紙を挟みこむ。

 その音がやけに大きく響いて、俺は思わず肩をすくめた。


 ──そのとき。


 背後から、控えめな気配が近づいてきた。


 足音は、しない。


 それでも、わかる。


 誰かが、俺たちの席の近くまで来ていた。


 「おはよ、誠一くん」


 耳元で囁くような声に、心臓が跳ねた。


 振り返ると、そこに立っていたのは──リリだった。


 小柄なその少女は、俺のすぐ後ろに、いつの間にか立っていて、微笑みを浮かべている。


  髪は肩に届くくらいの長さで、体を包む制服は、他の生徒たちとまったく同じはずなのに、どこか違って見えた。


 「おはよ、修二くんも。ふたりでなに見てるの?」


  彼女は笑いながら、俺と修二の間に割って入るようにして覗き込む。


 「なにこれ? 日誌? ……うわ、すご。めっちゃ“異常ありません”って書いてあるじゃん。これ誰が書いたの?」


 問いかけながら、リリは日誌をめくり、笑った。

 


 「異常しかないのにね」

 


 その言葉に、一瞬、2人が凍りつく。


 けれど──


 「冗談だよ。冗談」


リリは日誌を指でなぞるようにしてページを繰る。

 ぱらり、ぱらり。指先が紙の上を優しく滑っていく。


 「……なんか、お経みたいだね。ずーっと、“異常ありません”って」


 その言葉に、俺と修二は、ほんの一瞬だけ視線を交わす。


 ──でも、リリはただ、楽しげに笑った。


 「ごめんごめん。ちょっと気になっちゃってさ」


 そう言って、リリはぱたんと日誌を閉じた。

 俺はその動きに、なぜかほっとしていた。


 「……変なの、って思っただけ。うん、それだけ」


 彼女はそう呟いて、少しだけ俺の顔を見た。

 なにか言いたげに唇が動いたけれど、すぐに閉じられる。


 それが何だったのか、結局わからなかった。


 

 「──あ、そうだ」


 リリが、ぱっと話題を変えるように声を上げた。


 「ねえ、今日の給食、チキン南蛮だって!」


 来たばかりなのにそれかよ、と呆れて俺は眉をひそめた。


 「……リリ、お前、来たばっかだぞ」


 「だって、楽しみじゃん? 今日は給食予報が出てたんだよね。ほら、教壇のところの」


 リリは小柄な体を揺らして、机に手をついた。まるで、給食が今日一日の最優先事項かのように。


 俺が教壇に出現させた給食は、天気予報みたいに使われてたらしい。ちゃんと見てた人がいたみたいだ。

 

 隣で修二が、苦笑している。俺もつられて笑い出してしまった。


  「そんな能力あるの、お前」


 「あるってば。カレーの日は、匂いでわかるし」


  「……で、昨日は何だったんだっけ?」


 俺が何気なく口にすると、リリがすぐに答えた。


 「昨日は五目ご飯と、さばの味噌煮。星一個半」


 「え、星?」


 「給食チェック。味とか見た目とか、ちゃんと点つけてるの。私の中で」


 にこにこと笑いながら、リリは続ける。


 「一昨日は焼きそばパンとポトフで、星三つ。けっこう美味しかったんだよ? 特にポトフに入ってたトマト!」


 「うわ、思い出した……」


 隣の修二が眉をしかめる。


 「お前、トマト苦手だっけ?」


 俺が言うと、修二は軽く肩をすくめた。


 「苦手っていうか、あれは食い物として態度がはっきりしねえ。甘いのか酸っぱいのか、どっちかにしろよって思わね?」


 「わかるようで、全然わからんな」


 俺が苦笑すると、修二がぽつりと続けた。


 「てか、リリちゃん。よく一昨日の献立なんか覚えてんな」


 「えっ、覚えてないの?」


 リリが不思議そうに首をかしげる。


 「いや、なんか……昨日ですら『何食ったっけ』ってなるの、普通じゃない?」


 「普通って何。ほら、星つけてれば忘れないよ。味に人生かけてるから!」


 「人生かけるなよ、給食に」


 呆れたふりをして、俺は笑った。


 

 そのまま一瞬の沈黙が流れる。けれどリリはすぐに表情を変え、ぱっと顔を上げた。

 


 「そういえば、誠一くん」


 リリの顔は、なぜか少しだけ照れくさそうだった。


 「今日も、いっしょに食べていい?」


 「あ、ああ……もちろん」


 俺の声が、わずかに裏返った。


 リリはそれを聞いて、安心したようにふわりと微笑むと、そのまま自分の席に戻っていった。



 その背中を、俺と修二はしばらくのあいだ、無言で見送った。


 「……お前さあ」


 ぽつりと横から声がして、俺は反射的に修二の方を見る。


 「本当にわかりやすいな。リリちゃんが好きって顔にマジックで描かれてるぞ」


 「はっ!? な、なんだよ、いきなり!」


 「からかわれるのも当然だな」


 肩を揺らして笑う修二を、思わずにらみつける。

 けれど、否定の言葉は、うまく出てこなかった。


 「……うるせぇ」


 かろうじて、それだけ。


 それ以上は、何も言えなかった。


 

 誠一と修二もリリの後に続いて席に着く。


ほどなくして黒板脇の扉が静かに開く。

 

教室の空気が、ふたたびぴんと張り詰めた。


 


 入ってきたのは、さきほどの白衣の女性──先生だった。


 彼女はにこやかに一礼すると、何も言わずに教壇の前へ進む。

 歩く音は、ほとんどしない。まるで、廊下の空気をそのまま連れてきたような、ぬるい静けさがついてくる。


 手にしていたファイルを机の上にそっと置き、こちらを振り返る。

 表情は柔らかく、目元には微笑みが浮かんでいる。


 「それでは、はじめましょうね」


 その一言のあと、先生は背を向け、黒板に向かってチョークを持つ。

 カツ……カツ……と、黒板に何かを書きつけているのだが、チョークの音はなぜか耳に届かない。


 ……なのに、書いた“何か”は、確かにそこに現れていく。


 俺は思わず目を細めた。

 だが、そこに何が書かれているのかは、まったく読み取れなかった。


 隣の修二も、じっと黙って前を見ている。


 そして、生徒たちは誰ひとり声を出さず、姿勢を正したまま動かない。

 ノートを取る者もいない。うなずく者もいない。ただ、教壇を見ている。


 まるで、“見ること”そのものが、この教室における唯一の正解かのように。


 俺も、とりあえず視線だけは前に向けていた。


 それが、正解かどうかはわからない。

 


誰も声を出さない授業。


 筆記の音もない。教師の声もない。なのに、なぜか“授業”は進んでいた。


 ──その時だった。


 「先生、質問です」


 ぽつりと、前方の席から声が上がった。


 その一言で、教室全体が凍りついた。


  黒板を見つめていた生徒たちが、一斉に顔を伏せる。


 まるで、“そうしていなければならない”かのように。


 俺は思わず、そちらの方を見てしまった。


 声を上げたのは、クラスでもあまり目立たない男子だった。彼は机に手を置きながら、戸惑ったような顔をしている。


 教師──白衣の女の人は、すぐに反応した。


 「はい、○○さん。大丈夫ですよ。ちょっと、こちらへ行きましょうね」


 その声は、いつもと変わらずやさしい。


 彼女はその生徒の傍に歩み寄り、肩にそっと手を添える。


 そして、扉の方へと導くように──


 抵抗する様子もなく、生徒は立ち上がり、ふらふらと先生についていった。


 「外に出れば、落ち着きますからね。ね、大丈夫ですよ」


 そう言って、先生は振り返ることなく、静かにドアを閉めた。


 カチリ。


 教室の空気が、またぴたりと静止した。



 あの生徒が戻ってくることは、もう、なかった。








 

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