夏空にこいねがう

水底まどろみ

第1話

 窓の外からヒグラシの合唱が聞こえ始め、上の空だった意識が戻ってくる。

 机の上に広げられた問題集は空欄が目立ち、ピンク色のシャープペンシルが無造作に転がっている。

 高校受験を控えているのに、結局全然集中できなかった。

 肺の中の重い空気を吐き切って、私は握っていたスマートフォンの画面に視線を戻す。

 メッセージアプリの入力欄に打ち込まれた、『来週の夏祭り、一緒に行かない?』という短い一文。

 あとはボタンを押すだけだ。それなのに、心臓がうるさいくらいに暴れ回り、指先は見えない壁に阻まれている様に画面から数mm離れたところで止まってしまう。


 勇気を出すんだ宵月汐音よいづきしおね

 思い出を作るチャンスは、これっきりかもしれないのだから。


 自分自身に言い聞かせながら、画面に表示された『タケル』という名前をじっと見つめる。



 天道岳瑠てんどうたける。幼稚園の頃から一緒だった、私の幼馴染だ。

 小さい頃はお調子者だったが、中学に上がる頃にはすっかり落ち着いた雰囲気の男子に成長し、パワーヒッターとして野球部を牽引してきて……今では県外の高校からスカウトが来るくらい注目されている。


「俺……スポーツ推薦受けることにした」


 数週間前の終業式の日、誰もいなくなった教室で、いつも以上に硬い表情をしたタケルの声が脳裏に蘇る。

 それはつまり、あと半年と少しでタケルは県外に行ってしまうということで。

 これまでのように一緒に過ごせる日々は終焉を迎えることを意味していた。


「そっか……頑張って」


 ショックを受けた私は蚊の鳴くような声で激励の言葉を絞り出し、逃げるように教室を出て行ってしまった。

 それ以来、タケルとは連絡を取っていない。



 こんな気まずい状態のまま、別れの日を迎えるなんて想像したくもなかった。

 そんな折に街中で夏祭りの張り紙を見て、これしかないと思ったのだ。

 最後の思い出作りにこれほどうってつけなイベントは無いだろう。

 ……そう考えていたのに、いざ誘う段階になると途端に指が動かなくなってしまう。

 もしも断られたりしたら? 終業式の日のことで怒ったり悲しんでいたりしたら?

 嫌な想像がどうしても頭から離れない――。


「汐音?」

「ひゃっ!?」


 突然の声に小さく飛び上がる。

 振り向くと、そこにはラフなタンクトップ姿をした姉が立っていた。


「お母さんがもうご飯できたって」

「お姉ちゃん、ノックぐらいしてよ」

「したけど汐音が気付かなかったんでしょ。何してたの?」

「なんでもない。すぐ行くから」


 ついに反抗期が来たか、と演技臭く嘆く姉を部屋の外に追い出して大きくため息をつく。

 とりあえず、ご飯を食べ終わってから考えよう。

 いったん問題を後回しにしようとした私の手の中で、スマホが軽快な電子音を鳴らした。

 メッセージの着信を伝える通知音。

 画面にはタケルの名前と共に、『わかった。19時に駅前待ち合わせでどう?』という一文が表示される。


「……え?」


 慌ててロック画面を解除し確認すると、先ほどまで送るか悩んでいたメッセージが電波を渡ってタケルの元に届いていた。

 姉の呼びかけに驚いた拍子に、送信ボタンを押してしまっていたようだ。


 どうしよう。心の準備が全然できていない。

 ……いや、腹を括れ宵月汐音。

 こうなったからには、もう後戻りはできない。


「お姉ちゃん、後で相談したいことがあるんだけど」


 階段を下りていた姉の背中に声をなげかける。

 後悔を残さないためにも、やれることは全部やりきらないと――。

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