海のモグラ

蒼空 結舞(あおぞら むすぶ)

《モノローグ》

 幼い少年は硬質で冷淡な拘束具を付けられたまま冷たい海へと投げ出された。それとは対照的に幻想的な満月の海に投げ出され、深い海に堕ちる少年は息を潜め、瞳を閉じようとする。……呼吸しようとするのはなんだがやるせなかった。口を開けば塩辛い塩味が広がる。痛みが広がる。――まるで自分の人生を物語っているようだ。

 この深き海と同じように冷たく惨めな人生だったなと少年はふと顧みた。自分は海の供物くもつというものになったというのをずっと幼い頃から両親に言われ続けていた。父親も母親もろくでなしで、幼い少年には居場所がなかった。だから、自分はこの世にはイラナイ存在で、居るべき存在ではないと常日頃から感じていた。

 月に照らされてきらめく海中を見る。――なんと奇麗で美しいのだろう。海の偉大さを感じられた。冷たく浸食される水の渦に少年は身を任せる。

 こんなところで死ねるのならばこの人生でも良かったのかもしれない、なんて思ってしまう。自分は最後に海の光を見て、そして、……海のエサとなるのだ。

(あぁ……意識が遠のく)

 諦めて瞳を閉ざそうとした瞬間――何者かが必死な形相で犬かきをするように掻き分けて泳いできたのだ。

(なんだ、ろう……?)

「ほらっっ! て、にぎっってっ!!!!」

 少年は息をせずにただ茫然と見やる。すると向かってくるのは異質な物体であった。チャイナ服を着たずんぐりとした小さななにかはこちらへ駆けるように水中を無我夢中で泳いでいく。しかも驚くべきことに人語を話しているのだ。

「まっ、ててっ! 君を、かならずっ、たす、けるっっ!!!!」

 それから、海底へ沈もうとする少年の腕を小さな手でこれでもかと引っ張り上げた。なんという力だ。

「よしっ、その、ままっ、行くぞっ!!!!」

 少年は唇に泡沫を纏わせて決死な様子で遊泳する小さななにかから、暗闇の世界ではなく光の世界へ引き戻された――


「げっほっっ! えっほっ、げっほっ!!!!」

「だいじょうぶぅ~? きみぃ?」

 砂浜に上がり、むせ返っている少年に茶色で小さな姿の物体は人語を話して少年の小さな顔を自身の硬質な体毛で擦る。それから身体を震わせた。水しぶきが少年の目に入り、少年は痛がる。チャイナ服を着た異質なモグラは軽く謝罪した。「間に合ってよかったよ」などとまるで周知していたかのような発言を仄めかし、少年の拘束具を小さな手で取り外していく。少年はこの不思議なモグラの存在がよくわかっていない。

「あなたは……何者?」

 問いかければモグラはにたりと微笑んで、くるりと宙返りをした。宙返りをしたかと思えば、次の瞬間には――男の姿になっていた。こげ茶色の短髪に爽やかな顔立ちの甘いマスク、だが端正で悪戯に微笑む姿はお茶目さを感じさせる。そして極めつきは青と黒の模様をした男性用のチャイナ服であった。

 少年は目をぱちくりとさせながらその男を見上げる。先ほどの珍妙なモグラではなかった。じゃあ、この人は一体誰だろうかと考えた。

 砂浜に置いてあったボストンバッグからタオルを取り出した男は少年の小さな身体に纏わせた。潮の香りと柔軟剤の優しい香りがした。

 男と目が合う。男は優しげに笑んだ。

「それより君、名前は?」

 少年は首を傾げた。「名前ってなんですか? 俺は海の供物としか呼ばれていません」

「海の供物……ねぇ。それはなんか嫌だなぁ」

「はぁ。別に良いですけどね。……死ぬべき人間だし」

 一瞬だけ、男が悲哀に満ちた顔をした。少年はその意図がわからない。自分は海の供物として献上され、両親が金を貰い、そして死ぬべき人間として扱われることを承知していたからだ。抵抗もしなかった。

 男は真顔になったかと思えば、目元を潤ませた。「――――ごめんっ……!」

 そして少年の濡れた身体を男は強く、強く、抱き締めた。そしてなぜか、――泣いていた。まるで、少年の失った心を体現するかのように。

「俺はね、モグラって、言うんだっ。君に、そんな、顔をさせてっ、ごめんねっ……」

 男は、いや、――モグラは咽び泣く。少年はその真意が不明のままだった。どうして自分なんかのために涙を、見ず知らずの人間に涙を流すのかが不明であった。


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