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 京都府宇治市のウトロ平和祈念館を訪れたのは社会人になってからだが、それ以前、私は「在日外国人の問題」を聞きかじった程度にしか知らなかった

(本来、差別は「される側」ではなく「する側」の問題なのだが、それも言われるまできちんと意識していなかった)。

 彼ら彼女らが極右団体のヘイトスピーチ(憎悪表現)やヘイトクライム(憎悪犯罪)の標的になっていることは知っていたが、私の身近にそんな差別者はいないし、私はそんなことに加担しないと高を括っていた。

 だが、日本での差別に苦しむ在日外国人たちに対し、「国に帰れ」と言いたいとは思わないまでも、「なぜ帰らないのだろう」とは思っていた。

「日本での差別がそんなに苦しいなら、差別されない祖国に帰ればいいのに」。


 敗戦まで軍用飛行場の建設に従事させられていた在日コリアン(あるいはコリア系日本人)たちが戦後も暮らしたウトロ地区の平和祈念館で、人々が生きた証である日用品の数々を見た時、私は自分の想像力の欠如に気付いた。

 鍋やヤカンなどの調理器具もあれば、日記や学習ノートも展示されていたが、何気ない日用品でも、それらには細かいところまで、生活と時間が、痕跡こんせきとして刻まれていた。

 それは、血の通った、生身の、先を見通す力など持たないながらも、家族や近隣の人々と支え合い、過酷な日々を懸命に、少しでも楽しもうとしながら生きた人々の、足跡そくせきそのものだった。


 私は人間と土地の関係に思いをせた。

 私の父は関西出身で、青森の大学に進学した。

 母は宮城出身で、父の2学年後輩として青森の大学に進学し、父と出会って交際を始めた。

 父は先に卒業して関西で就職し、母とは遠距離で恋愛を続けた。

 母は大学卒業と共に父と結婚して関西に移り、その数年後、宮城の実家に近い病院で私を産んだ。

 私は宮城生まれだが、高校と予備校を出るまで関西で育った。

 私が育った家と母の実家は遠く離れているため、私が母方の祖父母に会うのは小学生時代の夏休みだけだった。

 それでも、東日本大震災の報を受けて私が真っ先に心配したのは、祖父母の安否だった。

 その後、還暦間近で早期退職した母は、半年に1度くらい、2週間ほど宮城に帰り、祖父母に代わって家や庭の掃除をしている。

 先日は、父と出会った青森の母校を訪れ、その写真を家族LINEにアップしていた。

 私たち子供は誰1人として、父と母の母校を訪れたことがないのに、である。


 人間と土地の関係は、本来的にそういうものだと思う。

 約60年の人生の中で、たった4年暮らしただけの大学。

 だが、他では味わえない大切な4年間だったに違いない。

 40年近くの時が流れて、キャンパスも街並みも様変わりして、一人暮らしをしたアパートが跡形もなく消え去っていても、母にとってそこは大切な思い出の地であり、子供たちと共有せずにいられないのだ。

 私が話を聞いた限り、母は祖父から、今では児童虐待と認定されうる「厳しいしつけ」を受け、それがトラウマにもなっているようだが、それでも母は祖父の面倒を見るため実家に帰る。

 宮城には伯母(母の姉)夫婦と叔父(母の弟)も住んでいるが、任せきりにはしたくないようだ。


 私自身、1泊2日の旅行で一度訪れただけの土地――それこそ広島の原爆資料館のような場所――であっても、新聞やニュース動画で取り上げられればある種の親近感を覚えるし、そういった場所が仮に地震や台風の被害に遭ったと聞けば、心が痛む。


 人間と土地の関係は思い出と深く結びついている。

 土地には過ごした時間があり、当時の気持ちがある。

 その意味で、土地は訪れた人の人生の一部であるといっても過言ではないだろう。

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