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 戦争の話を聞くにつけ、戦争の恐ろしいところだと思うのは、人間が人間扱いされなくなることだ。

 戦争や植民地支配が絡むと、人間は労働力にされ、生産手段にされ、兵力にされ、道具にされる。

 生身の生活から切り離され、感情や信念を無視され、意見表明を抑圧され、情報を遮断され、代わりがいくらでもいる存在にされる。

 それぞれの精神と人生は国家という全体に束ねられ、身体と未来は国家の所有物になる。

 日本帝国はそんな野蛮な国家ではなかったと言う人もいるだろうが、であれば治安維持法とは何だろう。大本営発表とは何だろう。神風特攻隊とは何だろう。

 人間1人ひとりの尊厳を認める国家に、どうしてそんなものが必要だったのだろうか。

 本土の制空権を握られておいて、東京や大阪が空爆され、沖縄を戦場にし、広島と長崎に原爆を落とされるまで戦争をやめなかった帝国政府が、本当に人々をかけがえのない存在として見ていたのだろうか。


 戦争に関する悲劇の中で、人間として正当なあり方を奪われた人々は、今もなお苦しみを訴え、尊厳の回復を求めている。

 歴史修正主義者は、こうした女性や「外国人」のことは詐欺師か何かのように疑ってかかる一方、日本帝国を擁護する言説は簡単に信じて一般化するようだが、このダブルスタンダードはおよそ科学的な態度とは言えない。


 だが、私の中にもまたナショナリズム、つまり、(政治権力が提示する)「国家」や「民族」との一体感があり、その内と外を分ける意識がある。

 小学生の頃は、テレビ越しにサッカーの日本代表を応援していたし、高校生の頃はWBCの日本代表戦を見て、ダルビッシュ投手のカッコよさにしびれていた。

 日本代表チームが勝った時は嬉しかった。

 東日本大震災は母方の実家も被害に遭ったが、そうではない熊本地震や能登半島地震などの時も、外国で同様の規模の地震が起こった時よりも心が痛んだ。

 極めつけとして、外国の政治家がどんな不祥事を起こしてもあくまで他人事だが、日本の政治家や公務員が不甲斐ないと、私の生活に直接の影響がなくとも、一度不満を述べ始めたらどうしても長くなる。

 自分を「日本」の内側に置いた上で、内と外とで態度を変えるのは、まぎれもなくナショナリズムの影響だろう。

 倫理的には人はみな世界市民であるべきなのかもしれないが、私はまだ「日本」という枠組みから自由ではない。

 もっと言えば、私は自分が属するその他の枠組みからも自由ではない。


 どうやら、自分と異なる境遇の他者に対し、想像力を働かせていないにもかかわらず分かった気になる傾向があることにも、恥ずかしながら最近になって気づいた。

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