花天月地【第67話 誰が為に秘す】

七海ポルカ

第1話




 徐庶じょしょがその庵に気付いたのは、閉じられていた庵の扉を外し中に入った時だった。

 

 囲炉裏の灰に、戯れで書いた「二十五」という数字が残っていたのである。

 それまでは、こういった猟師小屋は各地にあると聞いていたし雨が強かったので、全く気付かなかった。


 馬超ばちょうは何故かどこにいても自分が今、涼州の山のどこにいるのか、まるで地図でも持っているかのように分かるらしいのだ。


「この庵は……」


 馬超がすぐに庵の奥の大きな瓶を二つ動かして、床板を外している。

 そこから古びた小箱を取り出した。

 中を確認すると頷いた。

 小さな小瓶を取り出し、急いで床を戻した。


「これだ」


 馬超が戻って来る。

 徐庶に手渡した。


「小瓶の中に小さい匙が入っている。朝と晩に一匙ずつ、薄めずに飲ませろ。

 二日間、高熱が出るが、それが冷めれば状態は落ち着く。

 熱は出た方が快癒に向かっている証だから、下げようとするな。

 前に知り合いに飲ませた時は血まで吐いたが、健康で、熱に持ち堪えられれば熱の下がりと共に必ず良くなる」


 徐庶は大切に布に包むと、懐に入れた。


「ありがとうございます。

 馬超殿……この庵は……」


「知り合いのものだ。とはいえ、涼州の山中にはこういう小さな庵がたくさんあるんだ。

 持ち主が不在ならば、雨宿りに使っても構わないから気にするな。

 どうした?」


「いえ……あの、涼州に来た時、俺の友人がここの庵に連れて来てくれたのです」

「ここに?」

「はい。あの囲炉裏の灰に数字が書いてあるでしょう。彼とお互いの年齢の話をしている時に、戯れに書いたものです。気付いたのは今ですが」


 徐庶は裏に回り込んでみた。

 庭に墓がある。

 やはりそうだ。


「やはりここです」

「そうか……まあ涼州の者なら誰でも使っていいものだから」

「馬超殿は何故各地の庵のある場所が分かるのですか?」

「それは私も不思議に思っていたな。どこも深い山と森で特徴など無いように思えるのだが、貴方は正確に自分のいる場所が分かっているようだ。どんなに動き回っても」


 趙雲も首を傾げたが、馬超が小さく笑んだ。


「何故……と言われると困るんだが。慣れとしか言いようがない。

 自分の家の書棚のようなものだ。

 長年使い込んでいると、外見からは無造作に突っ込んであるように見えても、中を見なくとも外からどの書物か分かったりするだろう。

 自分の馬などもそうだ。

 自分で乗っていない馬が馬群にいても見当が付かないが、自分の馬は遠目に馬群の中にいて走っていても、何となく分かる。

 多分木の枝の形とか走る斜面の感じなど、大地の凹凸や生えてる種類の木や草、そんなものを総合して記憶しているんだと思う。

 別に俺だけが特別なのではない。これは涼州騎馬隊の人間なら誰でも備わっている類いのものだ。

 幼い頃からこのあたりから北まで、身体に染みこむまで馬で往復するからな」


「そうなのか……すごいな」


 徐庶がため息をつく。


「徐庶殿をここへ伴った友人も、迷わずここへ辿り着いたのでは無いか?

 普通の旅人は上がってくる道を見つけられん」


「あ……はい。確かに。見つけられないだろうと思って、近くの村まで迎えに出てくれていました。でも彼はこの庵には縁があるようです。祖父の所有物だと言っていたので」


 馬超が目を瞬かせた。


「ここが?」

「はい。そこにあるのは彼の祖父のお墓だと言っていました」

「――……」

 馬超が振り返った。

 三人で、雨に打たれている墓を見た。

 そこに三つほど花が供えてある。

 この大雨でとっくに萎れてしまっていたが、見覚えがあるのは陸議が背負って来た花を二人で供えたからだ。


馬超ばちょう殿?」


 趙雲ちょううんが呼ぶ。

 馬超がハッとした。

 

「馬鹿な……そんなことがあるはずがない」


 呟いて、首を振っている。

 馬超は徐庶を再び見た。


「……名を呼んでいたな。あまりはっきり聞き取れなかったが……」


「友人の名前は黄巌こうがんです。故郷はこのあたりではなく、北の臨羌りんきょうのあたりだと言っていました」


「黄巌……」


「馬超殿の知っている方か?」

 趙雲が尋ねる。

あざな風雅ふうがと言います」

 字を聞いて、馬超が瞳を驚いて見開いた。


黄風雅こうふうが……本当にそう名乗ったのか?」


「はい……。ですが彼とは五年ぶりの再会です。その時もこのあたりで運びの仕事をしている彼と初めて会った。彼はずっとそういう暮らしをしていて、このあたりの地形を熟知していました。今回この庵に連れて来てくれて、初めてここが祖父の家だということを聞きました」


「馬鹿な! そんなはずはない!」


 馬超ばちょうがいきなり徐庶の肩を掴んだ。

 徐庶と趙雲が驚く。

「馬超殿?」

「どうされたのだ」

「……従弟いとこの話をお前にしただろう」

「ああ。北に残して来た、一族の唯一の生き残りの縁者だったな。確か名は……」


馬岱ばたい。馬岱は幼い頃、別の所にいた。

 父を幼くして亡くしたので母と暮らしていたのだが、母も病で亡くなったので臨羌りんきょうの方に縁を頼って移り住んで来たんだ。

 その頃は母の姓を名乗っていて、母の姓がこうだった。がんは父親の名だ。

 臨羌の馬一族に引き取られてから、姓を馬に戻した。

 馬岱。あざな風雅ふうが。それが奴の本当の名だ。

 だがしかし……」


 馬超は徐庶に詰め寄った。

 責めているのでは無く、本当に彼のことを知りたがっているためだ。


馬岱ばたいはどうしていた⁉ 何故こんなところにいる? あいつは……あいつはもっと北の故郷で家族と一緒に暮らしているはずだ! ここに来た理由が何かあるのか⁉」


馬超ばちょう殿……、黄巌こうがんは、……俺が、彼から聞いた話では。この五年間、彼はずっと以前と同じ商隊の護衛や、運び屋の仕事を続けて涼州を行き来していたそうです。

 俺も久しぶりに会った時、このあたりで再会したことにとても驚いた。

 彼は家族をとても大切にしていたから、北の故郷でもう妻帯でもして暮らしているんだと思っていたから」


馬岱ばたいは……」


潼関とうかんの戦いの後、二年ほどは貴方と一緒に行動していたと言っていたが」

 馬超は頷く。


「……馬岱ばたいは強い男だったが心は優しいところがあって、本当は平和な暮らしに焦がれていることを俺は知っていた。

 だからあいつがある時、北の故郷に帰りたいと言ったから、止めなかった。

 あいつが帰りたいと言ったんだ。人並みの幸せな暮らしがしたいと。好きな娘を娶って家族を作りたい、曹魏や、涼州騎馬隊と、戦うだけの人生が嫌だと言った。

 俺が成都せいとに向かう時も文をやったが……ようやく穏やかな暮らしを出来るようになったからと、しょくには来なかった。

 俺は別にそのことは構わないんだ。馬岱が家族と共に、幸せに暮らしていてくれれば……しかし、」


「彼はまだ妻帯していません。馬超将軍。

 そう……北の故郷に戻らないのかという話を俺がした時、こう言ってた。

 想う人がこのあたりにいるので、共にいたくて留まっていると。

 生涯を共にしたい大切な人がこの近くにいると、彼はそう言っていました」


 馬超は押し黙った。


「今は馬岱ばたい殿は」

「すみません。ついこの前まで共にいたのですが……趙雲将軍、貴方は北の、焼かれた村を見たと言っていましたね? 私も黄巌こうがんも、同じ村を見ました。

 火を付けられたのでは無く、殺されてから彼らは火を放たれているんです。


 黄巌も北から涼州騎馬隊がやって来たと聞いて、北で何かが起こっていると思い、見に来たんです。その村で再会してこれは何者かが、魏軍が涼州の村を襲ったと思わせているのだと話し合い、その素性を確かめるために南下して来ました。


 彼は魏軍の張遼将軍とも、私と共に会い、とにかく今は魏軍と涼州騎馬隊のお互いの誤解を解き、停戦し、無駄な犠牲をこれ以上出さないようにしようと……南の村に赴けば、黄巌の友人達に連絡が取れ、そこから涼州騎馬隊にも呼びかけられるかと思いやって来て……」


 そうだ。

 そこで狙撃された。

 馬超も気付いたようだ。


「いや、すまない。怪我人の方は一刻を争う。

 すぐに発とう」


「馬超殿」

趙雲ちょううん、俺は……」

「心配なさるな。龐徳将軍の方は私が止めに行こう。

 張遼軍が迎撃の意図がないならば、龐徳ほうとく将軍に連絡が付けば停戦は出来る」


「すまん」


「徐庶殿。その薬を怪我人の元に送った後、山中に出て来られるだろうか? 馬超殿と話してほしいのだ。馬超殿はあの武器のこと、薬のこと、それに馬岱殿のこともまだ確かめたいことがあるのだと思う」


「分かりました。折を見て抜け出します。

 近くの山中で待機していて下さいますか。

 もし万が一のことがあってはぐれた場合はこの庵に。

 俺もこの庵は二度目なので、下の山道を見つけられれば、多分迷わず来れると思います。

 ここで落ち合いましょう」


「分かった。趙雲。お前も役目が済んだらここへ来い。

 涼州騎馬隊にお前は深入りはするな。

 停戦したら、離脱してこの庵へ……迷わず来れるか?」


 ブルル、と趙雲の馬が首を大きく上下させて、片足で地面を掻く仕草を見せた。

 不満を露わにした仕草だ。

 険しい顔をしていた馬超が、そっちを見て少しだけ表情を和らげた。


「そうか。お前は翡翠ひすいの居場所が近くにいれば分かるか」


「大丈夫だ。私は必ず戻る。

 徐庶じょしょ殿。馬超殿をよろしく頼みます」



「趙雲将軍。俺にまだ、劉備殿のために出来ることがあるとは思わなかったけど。

 馬超殿は必ず無事に貴方の元に返します。劉備殿のもとに」



「ありがとう」

 趙雲は二人と握手し、それから振り返った。

馬岱ばたい殿の祖父の墓と言っていたが……それでは、あれは馬超殿の祖父でもある方なのか?」

 馬超は頷いた。


「そうだ。俺達の共通の祖父、馬平ばへいの墓だ」


 それを聞くと趙雲ちょううんは庭先の墓の方に行き、膝をつく。


「この広い涼州で、馬超ばちょう殿と会えたのもきっと貴方の加護があってのこと。

 感謝します」


 一礼すると、立ち上がる。


「先に行く! 二人とも、気をつけろよ!」


 趙雲は騎乗すると「ハッ!」と声を掛けて坂道を駆け下りて行った。


「我々も急ごう」


 馬超の声に、徐庶は頷く。

 騎乗する。

「徐庶殿……馬岱ばたいは……風雅ふうがは元気そうだったか」

 小さな声で馬超が尋ねて来た。


「元気そうでした」


 徐庶は答える。

 馬超がこっちを見た。


「村で偶然会った時、五年前と少しも変わってない笑顔で俺を迎えてくれた。

 この庵で……たくさんの食物で料理を作ってくれました。

 五年前より料理が上手くなってると誉めると、嬉しそうだった。

 ……俺も貴方と同じように、風雅のこの五年間を正確には知らないけど。


 でも何も変わってない。

 

 前に来た時、俺はお尋ね者だったんです。

 それでも涼州ではそんなこと誰も気にしないってこんな俺とも普通に付き合ってくれた。

 今回は俺は魏の軍師だ。

 でも軍事行動をまだ起こしてないと言うと、それなら今日だけは友人同士として過ごそうと、優しい言葉でもてなしてくれた。


 何も変わってない……勇敢で明るい魂を持った、温かい男のままでした」


 馬超が雨に打たれながら、一瞬、安堵したような表情を浮かべたのが見えた。


「……そうか。……それならいいんだ」


 彼は馬を進めて斜面を下りていく。

「魏軍は祁山きざんの麓だったな」

「はい」

「では、俺が最短の道を先導する。遅れず付いて来てくれ」


「はい!」


 二人はまた強く降り始めた山中を、駆け始めた。



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