【完結】おっさん、魔法少女になる

Arare

第一章

第一部

第1話 天から降ってきた魔法少女

 天から降ってきた美少女は、まるで天使のようで——。


 それが最初の印象だった。

 夜の闇に包まれた空から、ふわりと光の粒をまとって彼女は落ちてきた。

 月明かりがその輪郭を照らし、白いドレスのような衣がひらりと風に舞う。

 その姿はまるで、宗教画から抜け出してきた天使そのものだった。


 しかし、近づくほどに、その幻想はひび割れていった。


 彼女の白い衣はところどころが黒ずみ、裂け、乾いた血で硬くなっていた。

 長い髪には泥が絡み、細い腕には痛々しい擦り傷や青あざが無数に走っていた。

 目を閉じた顔にはかすかな苦悶の表情が浮かび、天使のような神聖さと、現実の重みとが不思議な違和感を醸し出していた。


 思わず、僕は駆けだしていた。反射的に。理屈も躊躇もなかった。


「危ない!」


 自分でも何をしているのかわからないまま、僕はその少女を腕に抱きとめた。

 重み。温もり。確かに生きていた。

 だが、その身体は信じられないほど軽く、そして、傷だらけだった。


 目を閉じたままの少女を胸に抱き、僕はただ立ち尽くした。


***


 井原龍之介は、ブラック企業に勤める、しがない中年のおっさんだった。


 四十代半ば。独身。

 彼女いない歴もそれなりに長く、友人付き合いもろくにない。

 仕事から帰れば、安い焼酎を飲んで眠るのが唯一の楽しみで、最近は酒の量も増えたせいで、腹が出てきた。

 頭頂部の髪も心なしか薄くなってきている気がして、朝の鏡を見るのが少しだけ嫌だった。


 その日も、残業確定の重たい一日だった。

 明日が納期の案件は終わりが見えず、チームの若手も次々に帰ってしまって、会社のフロアには数人しか残っていなかった。


 井原は、こっそりと自分のデスクを離れ、非常階段を上って屋上へと出た。


 缶コーヒーを片手に、ビルの手すりにもたれ、夜空を見上げた。


「はぁ……」


 星が滲んで見えた。

 きらきらと瞬く光が、やけに無関係で、遠い。


「あーあ……いっそ、もう飛び降りちまうか」


 つぶやいた言葉に、自分でも軽く苦笑がこぼれた。


「面白いことも、守るものも、もう何もねぇしな」


 本気ではなかった。ただ、口から漏れただけの、諦めの戯言。


 でも、そんな自嘲を打ち砕くように——空に、異変が起きた。


「……ん?」


 視線の端で、何かが動いた。

 星の間に、不自然な影があった。


 いや、影じゃない。落ちてくる……人影?


「うそ……だろ……」


 井原は目を凝らした。

 確かに、それは人だった。女の子。それも……


「……美少女……?」


 夜空を背に、ひとりの少女が、まるで空から舞い降りるように、落ちてきていた。


 なんとか飛び込み、少女が地面に叩きつけられる前に抱きとめた。 


 その少女は、口から血を吹き出した。


 赤黒い飛沫が、真っ白な衣装に花のように咲いた。


「大丈夫かっ!?」


 井原は叫び、少女の身体を支える腕に力を込めた。

 その温もりが少しずつ失われていくような錯覚に、恐怖がこみ上げた。


「今、救急車を……!」


 震える手でスーツのポケットからスマートフォンを取り出し、番号を押そうとしたその時——


「やめて……」


 か細い声が、井原の手を止めた。

 見ると、少女が首を横に振っていた。

 痛みに耐えるように眉を寄せながら、それでも微笑みを浮かべて。


「最期に、また、あなたと会えて……よかった……」


「え……?」


 鼓動が凍りついた。

 聞き間違いかと思った。

 けれど、少女の瞳はまっすぐこちらを見つめていた。


「どういうことだ……? “また”って……俺、お前と会ったことなんて……」


「覚えていなくても、いいの。あなたは、ずっと……優しかった」


 少女の言葉は、まるで夢の中の誰かの声のようで、現実の地面からほんの少し浮いているような、不思議な響きを持っていた。


「この傷は……治せない。私は、もうすぐ……死んでしまうわ」


 そう言いながら、彼女の目尻に涙が一筋、流れた。

 井原は頭が混乱しながらも、ただ必死に言葉を探した。


「いや、そんなの……そんなの、わかるわけないだろ。まだ助かるかもしれない……!」


 少女は、静かに微笑んだ。


「優しいあなたに……私の力を授けさせて……」


「……え?」


「魔法少女になって、世界を守って」


 ——その瞬間だった。


 夜空に、異変が走った。


 星々が、黒い染みのような何かに覆われていった。

 雲ではない。影でもない。

 蠢くような、不気味な、まるで無数の怪物の群れが、天から地上へと迫ってくるのが見えた。


「な……んだよ、あれ……っ」


 声が震えた。

 背筋が凍る。

 けれど、次の瞬間、少女がその小さな手で井原の手を握った。


 その指先から、まばゆい光が溢れた。


 まるで魂そのものが流れ込んでくるような、熱くて、優しくて、眩しい光だった。

 少女の身体から吹き出した光が、井原の胸の奥へと、まっすぐに注がれていった。


「……!」


 意識が遠のくようで、しかし、それは目覚めのようでもあった。


 背中に、光の羽根が現れた。


 地味なスーツはどこかへ消え、代わりにきらめく魔法の衣装が彼を包んだ。


「なんだよ、これ……っ、なんで俺が魔法少女になるんだ……っ」


 そうして、中年のおっさんは“魔法少女”となった。

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