灼熱真夏の直談判

和山静香

灼熱真夏の直談判

 手首のスナップを効かせてスマホの画面を返す。黒かった画面に実家のダックスフンドの家族が浮かんだ。まだ目も開いていない小さき命たちが必死に母の乳を吸っている写真だ。

 思わず脂下がって、慌てて表情を引き締める。時刻は十四時十三分。遅刻者の到着の連絡からすでに十五分が経とうとしていた。

 私は銀色に光を放つバー型のドアハンドルを握った。

 からんからん。

 軽やかなベルの音が、地獄のような酷暑の熱を攫う。私は体を包み込んだ冷気とコーヒー豆の匂いにほっと息をついた。

 喫茶アマカワ。

 しっとりと光をはじく飴色の木を基調にした内装は、ぬくもりを感じ、訪れた人々に癒やしを与えている。そして、椅子やソファーのカバーに深い緑色を使うことで、引き締まった印象も残していた。店主のこだわりが感じられるワンポイントだ。

 ここは私とアイツが、なにかにつけて利用するお気に入りの店だ。今日はアイツの呼び出しで来ている。

 もはや顔見知りの店員は私の姿を認めるなり、「お連れ様はこちらです」とボックス席に案内した。

 想像した通りの先客――みやびがそこにいた。パッと花が咲くように笑う。

「おはよ!」

 今日ももったいないことをしている、と特徴的などんぐり眼を見ながら、内心ため息をついた。

 取ってつけたような化粧をしている。いや、ファンデーションをはたいただけなのだから、もはや化粧と言うのもおこがましい。オレンジのリップに、ちょっとアイラインを引いてアイシャドウをすれば年相応に可愛く見られるだろうに。

 にもかかわらず、肩で切りそろえられた黒茶の髪はアホ毛の一つも出ていない。ズボラなコイツにワックスで髪を整えるという発想はない。十中八九美容室帰りだ。

「おそよう。もう二時過ぎたよ」

「まあまあまあ」

 呆れる私を宥めるように雅は対面の席に私を座らせる。注文は決まっていたので、早々にアイスコーヒーとアイスクリームを告げた。雅は私のお冷が来たタイミングでアマカワの名物のショートケーキを注文した。

 ハンカチを取り出して汗を拭う。制汗スプレーも灼熱では意味がなかった。

 曇ったグラスを手に取ると、冷たさに瞬時に手の汗が引っ込んだ。中身を一気に胃に流し込めば、今度は蒸し状態だった内臓が冷える。

「ぷはーッ」

 生き返った。こんな日に外に出るもんじゃない。でも、顔を見ずに文字でやり取りするには議題が重すぎるのだ。お前には無理だと散々拒否したが、諦めきれないらしい。さあ、覚悟のほどを問おうじゃないかと顔を上げ、ぴしりと固まった。

 机の上に、白い陶器製のマグカップが鎮座していた。半分以上減った茶色い液体からは蜃気楼のように湯気が揺らめいている。

 コイツ、ホットココア飲んでいやがる。

 雅の前にもお冷のコップはあって、中身は三分の一ほど消えていた。外が暑くなかったわけじゃないらしい。

 なのにホットココア。こんな酷暑を余裕で超す日に飲むのか。あり得ない!

「正気?」

「何が?」

「なんでこんな日にそんな熱いものが飲めるの?」

「だって寒いじゃん」

 当たり前のように吐かれた言葉に、私はのけぞった。呆然として、ハッと思い当たる。私の感覚がおかしかったのかもしれない。雅があまりに自信満々な答えをしたので灼熱で蒸し焼きされた脳が勘違いを始めていた。

 ふらふらとスマホで今日の気温を確認する。――最高気温三十八度。いややっぱ私が合ってる。 

 雅の服装を見ると、厚めの黒いTシャツに、白いラッシュガードをしっかり羽織っている。ダメだ、見ているだけで汗が噴き出してきた。

 そうだった、コイツはそういうヤツだった。

「学食で真夏にカレーうどん頼んでたね」

「うん。食べたかったし」

 引き絞られるような頭の痛みに呻いた。お冷を氷ごと口に含む。

 当時、今よりマシとは言え、夏、特に昼時は暑かった。うどん提供コーナーに並んだ人はこぞって冷たいうどんを求めた。その中でコイツはカレーうどんを求めた。あの時も今と同じように正気を疑った。ちなみにこれには、うっかり冷たいうどんを出されてしまうというオチがつく。

「食堂の人、可哀相だった」

「だったら食券マシンから『カレーうどん』抹消すればよくない? そしたら私だって頼まなかったよ」

「そういうことじゃねーんだよ」

 私はのぼせた額に冷たい手の平を沿わせた。額から熱が消えて、脳もすっきりする。

 雅に真正面から取り合ってたらこちらの神経が消耗するばかりだ。

 ちょうどその時、注文の品が届けられた。透き通った焦げ色のアイスコーヒーは見た目にも涼しい。銀色の皿に乗ったバニラアイスも横に添えられて、私は今本当の意味で納涼を得た。

 雅の前には白い皿に乗ったショートケーキが置かれた。その隣にあるのは件のマグカップ。夏にあるまじき光景だ。一人だけ暑苦しい。私はわざと音を立ててコーヒーを一口飲み込んだ。コーヒーはいつだって私を平常心に戻してくれる。

 役者も揃ったところだ。私は机に肘を突き、ぐっと身を乗り出す。

「ねえ、本当に本気のホンキで『欲しい』って言ってるの?」

 私の重低音に、待ってましたと言わんばかりに雅が顔を輝かせた。大きなその目から星が弾けているようだ。今日の集まりは遊ぶでも、暇つぶしでもない。もっと重々しいことだ。

 雅は思い切りよく手を合わせた。

「お願いします。ちゃんとお世話します。私に譲ってください!」

「やだよ。だってアンタ、甲斐性ないし」

「あるよ!」

 大げさなくらい驚く雅は、心外だ、とでも言いたげだ。私にとっては、その反応をされることの方が心外だ。

「だってガジュマル枯らしたじゃん」

「そ、それは」

 ガジュマルは枯れない観葉植物として有名だ。ズボラな雅のもとでもしぶとく生き抜くはずだとおすすめしたのだ。買った当初は「大事にする」と意気込んでいたのだが、半年ほど経って家に行くと、見事に枯れ果てたガジュマルがそこにあった。可哀そうで泣いた。コイツもそうだが、おすすめした私の罪も重い。

 どうにか諦めさせたくて二つ目を挙げる。

「面倒だからってしょっちゅうごはん抜くし、お風呂入らないでしょ」

「……だって」

「自分の世話もできない人に他の何かはお世話できません」

 これで決めてやる。私は決定的な言葉を投げつけた。

「雅はね、世話『する』側じゃないから。世話『される』側なの」

「ぐ、ぐう……」

 雅は眉間にしわを寄せ、歯を食いしばる。図星である。

「自分でわかってるでしょ?」

「……」

 畳み掛けると、ついに雅が何も言えなくなった。

 私は諭すように優しく言った。

「私はね、無理言って土下座もして、それでやっとおばあちゃんからお許しを頂いたの。命を預かるってそういうことなんだよ。思いつきだけでできるものじゃない。世話する側にはその子が死ぬまでずっと世話し続ける責任が伴うの」

「……」

 雅は俯く。

 辛いことを言っている。しかし、いい加減雅には学んでもらわなければならないのだ。

「飽きたらポイはできないの」 

 雅はついに机に突っ伏した。まるで枯れたガジュマルだ。

 チェックメイト。

 私は胸をなで下ろした。ガジュマルの再演は免れた。これであのガジュマルにも申し訳が立つ。今夜はよく眠れそうだ。アイスクリームを口に運ぶ。

「だって、だって……」

 撃沈した黒茶の塊から湿った声がする。こう見るとアイスコーヒーと同じ色だな、と頭の片隅で考える。

「おいしかったんだもん」

 そっと告げられた声に私は強く唇を噛んだ。

 雅はぬか漬けの虜になった。

 原因は私だ。先日、泊まりに来た雅に自家製ぬか漬けを出した。すると想定外にハマってしまった。それはもう、三合炊いたごはんを空にする勢いで。

 一番始末が悪いのは、スーパーにある市販のぬか漬けではなく私のぬか漬けを気に入ったことだ。

 だから同じ味になるだろううちのぬか床を欲しがった。

「私も家であんなぬか漬け食べたい」

 ぽつりと呟かれた言葉に心が揺らいだ。だったら一緒に住めばいいと口走りそうになる。冷静になろうとコーヒーで口を湿らせた。

 全部なあなあで済ますコイツと、角は四角く掃かないと気がすまない私。

 生活態度があまりに違いすぎる。私が我慢できない。それは学生の頃、互いの家でお泊りした数日間ですでにわかり切っている。友情にほだされてはいけないのだ。

 私は机の下で手を握りしめて、セリフを読み上げるように声を出した。

「雅は本当に一人で生きていくの向いてないよ。ルームシェアでも何でもいいから、早く誰か捕まえな」

「ムリだよ。私、他人に合わせられないもん」

 その通りだ。雅は合わせてもらう側だ。なのに一人では生きていけない。難儀だ。

「だから~、本当にお願いぃ。ぬか床譲ってぇ」

「だめ」

 それとこれとは話が別だ。コイツに分け与えたら最後、ダメにする未来しか見えない。

 むくりと雅が起き上がった。徐にショートケーキにフォークを刺し、一口分掬い上げる。

「はい、あーん」

 にっこり。差し出されたフォークに思わず食いついてしまう。美味しくて、私も笑顔になる。

「食べたね? じゃあちょうだい?」

「食べ物で釣れると思ったの、そんなわけないでしょ」

 にべもなく断る。雅は愕然とした。今にも手から滑り落ちそうなフォークを、慌てて握らせた。

 なんだか可哀想になってきた。感傷が胸中に渦巻く。あの時の私もこんな感じだったのかな。

 毎日のように押し掛け、おばあちゃんに頭を下げた日々。おばあちゃんは、そんなに気に入ったなら、漬けたものを送ってあげるからと言ってくれた。たぶん、ぬか床の世話の大変さや面倒臭さを考えて言ってくれていたんだと思う。

 でも私はそれで満足できなかった。どうしてもいつでも食べたかった。だからぬか床を分けてもらって、今も毎日回している。

 ちょっとぐらいなら、世話できるだろうか。ほだされたわけじゃない。ただ、おばあちゃんのように、その子を信じて託してあげるのも大事なことだと思うのだ。

「わかった」

 私は特大のため息をついた。雅のうるんだ瞳を真っ直ぐ見る。

「あげる。ちゃんと毎日世話してね」

 雅はおもちゃを買ってもらった子供のような笑顔を見せた。

 がんばってね。

 私は口の中でそう言った。


 一か月後、メッセージアプリで写真と共にメッセージが来た。

「ぬか床って綿毛生えるの?」

 タッパーに入ったぬか床には、ふわふわのタンポポの綿毛が敷き詰められていた。白カビである。

 眩暈がした。床に座り込む。ここが家だったことに感謝した。

 私が打ち込めた言葉はこれだけだ。

「もう絶対譲らない」

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