第18話 不穏と不安は融けていく
「明兎くんは私に隣に居てほしいですよね? いつでもあ~んできる距離が嬉しいと思いませんか?」
保育園帰りの喫茶お月見。4人席で肩が触れ合う距離に座るのは、もちろんそららだ。
身体が触れたりすると今でもやっぱり意識しちゃうけど、それ以上に安心感がある。
逆に居ないと物足りなさを感じるようになってきたから、もう重症なんだと思う。
この関係性は何なのか……名前を付けられずにいるけれど、心地いい。
「ずっと思ってたけど……あなた達のその距離の近さはなんなの?」
正面に座る奈那は、呆れた顔で俺達を見る。
「最初は空良が距離感おかしいだけかと思ったけど、他の男子には壁を作るところがあるし……明兎だけよね、こういうの」
「それはそうです。明兎くん以外に変な勘違いされたくないですから」
俺の服の裾を、そららはつまんだ。
強くも弱くもない、『いつもの』力加減がくすぐったい。
店員さんが料理を運んでくる。俺の前にサンドイッチ、そららの前にオムライス。奈那の前にはパンケーキだ。セットで全員に紅茶もついてきた。
「パンケーキってごはんなの?」
「サンドイッチもパンケーキも小麦粉よ。食べたら一緒だわ」
俺の呟きに、奈那は当たり前のような顔をして答える。
「待ってください……。砂糖とかお野菜とか、いろいろ違いませんか?」
「美味しければ、心の栄養になるのよ」
毎日料理をしてくれているそららは全く納得していない顔をしているが……奈那が謎に自信満々で何も言えないようだ。
「……ところで空良、石井くんの調子はどう? 友達できそうなの?」
奈那がパンケーキにナイフを入れながら、ぽつりと問う。
友達が欲しいとよく相談にきている男子生徒――石井。最近は目的がそららに会うことに変化しているんじゃないかと、奈那は厳しい目で見ている。
「石井くんですか? う~ん。がんばってるんですけど、一歩踏み出す勇気がないみたいですね。でも、このまま励まし続ければきっと大丈夫だと思いますよ」
「本当にそう思ってる?」
含みのある言葉に、そららは困ったように眉を寄せた。
「気付いてるでしょ? 石井くんの気持ち。なんで彼がしあわせ新聞部によく来るのか」
「……」
そららは俯く。自覚はあったらしい。……当然か、外野から見てもわかるのだ。
「……今の空良と石井くんって、このパンケーキに似てると思わない?」
奈那はパンケーキの上に乗るバターの上にシロップをかけ、フォークで優しく混ぜ合わせる。2つは絡み合い、融け合っていく――
「優しくて温かなパンケーキは甘くて素敵だけれど……混ざったらもう、2度と離れられないわ」
トロトロになったバターとシロップは染み込んでいき――パンケーキにその存在を飲み込まれてしまった。
「私は……そんなつもりじゃ……」
「あなたはそうでしょうね。明兎がいるし、友達もいる。しあわせ新聞部だってある。でも、石井くんは違うのよ。あなたの生活のほんの一部が、石井くんの全部になったら……もう、彼は戻れないわ」
「でも、今のままじゃ石井くんは幸せじゃない。私は……手の届く人は助けたい。それが私の生きる意味だから……」
不安定で危うい口調。奈那は冷静に切り捨てる。
「彼には彼の人生があるわ。いつまで過保護でいるつもり? そのオムライスみたいに、いつまでも優しさで包んであげるつもりなの?」
そららの手に握られた紅茶は零れそうなほど波打つ。
暗い声で、心の奥に仕舞いこまれた思いを引きずり出すように――彼女は呟く。
「でも――」
ぴたりと、紅茶の波が収まった。
それは何かの前兆のように――形の良いそららの唇が、歪んで見えた。
「誰かの役に立てない私に……居る意味って、ないですよね」
奈那は息を呑む。そららの瞳は暗く、安易に声を掛けられない危うさがある。
沈黙が支配する。読みたくもない空気を……読まされる。触れたら、この関係が壊れてしまいそうな……恐怖。
だから――俺は、緊張した身体をほぐすために大きく息をはいて――口を開く。
「――俺がやる。……どこまでやれるかわからないけど、そららにだけ負担をかけたくない。奈那の言うこともよく分かる。だから――やらせてほしい」
2人の視線が俺に集まり、奈那が小さく息をはく。……一瞬、その目元が緩んで見えた。
優しい彼女だ。厳しいことを言いながら、誰よりも心を痛めていたのだろう。
そんな役をいつも奈那に押し付けるわけにはいかない。だから、俺が動きたい。
「あおとり新聞に、読者のメッセージを掲載するスペースを作ってみたいんだ。趣味で繋がる……悩みで繋がる……自分を表に出すことで……きっと共感って集まると思うから」
本当は知って欲しいのに、怖くて自分を出せない。
似たような痛みを抱える俺だから、できることだと思う。
「必要なのは……一歩踏み出すきっかけと、勇気だ。俺はそららに勇気を貰えた。幸せ新聞部で踏み出すきっかけを貰えた。今日の保育園だって、奈那がきっかけをくれたから実現した。本当に助けてもらってばかりだ」
空気ではなく人になる。これは入学式の朝にした決意。けれど、たくさんの後押しがあって、やっと俺は進めている。
「意志があれば、歩き出せると思う。俺達が……道を見せてあげたら、あとは自分でどうにかするんじゃないかな?」
「道……ねぇ。具体的には?」
「まずはメッセージを載せて、そこから匿名でやり取りをしたいと思ってる。……けど、そうしたら色々トラブルが想定できるんだ。その対策を……一緒に考えて欲しい。……俺ひとりの考えだと、見落としがありそうだから」
その言葉に最初に微笑むのは……やっぱりそららだ。
「もちろんです。私は明兎くんを幸せにするって入学式の日に言いました。そのための協力は惜しみません。それに――」
すっと、もたれ掛かるように彼女は身を寄せる。
その体温が染み、俺の中にそららが入り込んでくるように思えた。
「明兎くんが、私の事まで考えてくれるのが、すごく嬉しい」
……その言葉は甘く融けて、消えていく。
一瞬パンケーキに視線が行く。慌てて逸らすと――奈那と目が合う。
彼女は何も答えず。その瞳は不安げに俺を映している。……いや、俺とそららを映していた。
「奈那……?」
「好きにしなさい。……なにがあっても、見ていてあげる」
歯切れ悪くそれだけ言うと、彼女は目を伏せてしまった。
***
「今日は来てくれてありがとね、武岩さん。直枝くん」
キッチンに居たらしいうさみみが、休憩時間に挨拶に来た。俺や奈那と学校で話すことはあまりないのに、律儀な子だ。
「うさみみ。サンドイッチ美味しかったよ。そららは今、席を外してるけど……」
彼女は電話が鳴って店外に出ている。なぜか元気のない奈那と、とりとめのない会話をしていた。
「実はね、2人に話があるんだ……」
「空良じゃなくて、私達2人に?」
奈那が首を傾げるが、俺も要件が思い当たらない。俺と奈那ふたりにコスプレをしろなんてお願いをするわけもないだろう。
「うん。実は、空良ちゃんに……変な噂が流れてるの」
「……噂?」
奈那が眉間に皺を寄せる。
「あの子……モテるでしょ? どうせ振られた男の逆恨みだと思うけど……男をもてあそんでるみたいな内容がね。ホントくだらないし、仲いい子は信じてないんだけど……空良ちゃんは目立つからさ、注意してあげて」
うさみみは心配そうに顔をゆがめた。
「そうだね……。その噂を信じた男が寄って来たり……もしくは……そんなデマを流したやつらが直接的に悪意を向けてくるかもしれない。気をつけておくよ」
「ほんとくだらないわ……。空良が明兎にべったりなのはみんな知ってるでしょうに……」
悔しそうに、奈那は机の上を睨みつけていた。
俺も心中穏やかじゃない。他の人は知らない事だが、そららは夜も俺の部屋で食事をしたりして一緒に過ごすことが多い。
他の男との接点なんて殆どなく、誤解される要素がない。
だから、それは明らかに悪意だ。誰かがそららを陥れようとしている。
「――許せないな」
無意識のうちに呟いていた言葉に、うさみみは力強く頷いた。
「空良ちゃんは優しくて温かくて、でも誰よりも人のことを気にする繊細な子だと思う。――私、あの子が傷つく姿は見たくない……。だから、守るために……できることがあれば教えて!」
「頼りにしてるよ。何かあれば絶対言うから」
「空良ちゃんには秘密にしてて。人の心配はするくせに、自分の心配はされたくないと思うから……。ごめんね、お願いします」
弱々しく微笑むと、うさみみは休憩が終わるからと手を振りながら戻っていった。
「けど……石井の件だけじゃなくて、変な噂まで……問題は重なるものだね」
「そうね。でも……石井くんの件は、厳しく言っちゃったけど……そこまで心配していないのよ」
「……どういうこと?」
奈那は追加で頼んだアイスココアのグラスをストローで混ぜる。中の氷が音を立てていた。
「石井くんの気持ちがどうあれ、空良はそれを拒絶することになる。だから――一時的に彼女は傷つくかもしれないけど……それだけよ。……私が本当に心配してるのは――」
グルグルと、ココアは混ぜられ、混ざり合い――
「――心配してるのは……、あなたが空良と融けてしまいそうってことよ」
氷は静かに、消えていく。
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