第28話 女王陛下の不協和音

屋上での一件の後、僕と天野さんとの間には、どこか奇妙な空気が流れていた。


それは決して悪い空気ではない。


僕と天野さんの間で、明確なシナジーが形成されつつあった。僕の論理ロジックが行き詰まれば、彼女が感性という名の別ルートを提示する。

彼女の表現が出口を失えば、僕が最も効率的な言葉の地図を差し出す。

僕の分析モデルに、彼女の感情という、これまで計測不能だった変数が組み込まれたことで、出力される結果の解像度は、明らかに指数関数的な向上を見せていた。


完璧な共犯関係。

僕たちは、最強の二人になれるかもしれない。


僕の観測によれば、この時の文芸部室は、一種の閉鎖系として機能していた。僕と天野さんという二つの要素が、互いにポジティブ・フィードバックを繰り返し、一種の創作トランス状態とも呼べる、極めて特殊な精神的空間を形成していたのだ。

当然、その空間に、黒崎部長や堂島という外部変数が介在する余地はなかった。


「……」


不意に、チッ、と小さな舌打ちが聞こえた。

思考の海に沈んでいた僕の意識が、強制的に浮上させられる。音の発信源は、当然、窓際の黒崎部長だ。

視線を向けるまでもなく、彼女が不機嫌であるという事実は確定している。問題は、その原因と深度だ。僕の視界の端で、彼女が忌々しげにスマートフォンを机に置くのが見えた。

普段の彼女なら、もっと優雅な所作でそれを扱うはずだ。

一連の動作から、普段の彼女をベースラインとした場合の逸脱値を算出する。


結論:彼女の内部で、何らかの許容範囲を超えるエラーが発生している可能性が高い。


彼女が意を決したように口を開いた。


「おい、神崎。少し……」

「あ、部長、すみません! 今、最高にいい感じの比喩表現が降臨しそうなので! もう少しだけ!」


僕は、ほとんど無意識に、女王の言葉を遮っていた。愚かな行為だ。だが、その時の僕の脳は、正常な判断能力を失っていたと言っていい。天野さんという予測不能な変数から提供される、生々しく、混沌とした感情データ。それを僕の分析能力というフィルターに通し、最も純度の高い物語の構造へと再構築する――このプロセスは、僕にとって、今まで経験したことのない知的興奮をもたらしていた。

複雑な数式の最後のピースが、ぴたりとハマる瞬間に似ている。

僕はこの完璧な化学反応の観測に、我を忘れるほど夢中になっていたのだ。外部からの雑音など、僕の思考にとっては処理能力を低下させるだけの、ただのノイズでしかなかった。


部長は、ちっ、と小さな舌打ちをすると、口を閉ざしてしまう。


それから数十分後。再び、部長が重い腰を上げた。


「……お前たち、いい加減に手を止めろ。重要な話が……」

「あー、腹減ったなー」


今度は、それまで空気のように存在を消していた堂島くんが、間の抜けた声で会話に割り込んできた。彼は大きなあくびをしながら、僕たちに見せつけるように菓子パンの袋を開ける。

「黒崎さんも食う? このチョコチップスナック、物理法則的に最も効率よく血糖値をブーストさせる形状をしてるんすよ」

「……貴様は、少し黙っていろ」


その日、部室で初めて言葉を発した堂島にそれはないだろうという、地を這うような部長の低い声。

その瞬間、僕は、ようやく気づいた。部長の纏う空気が、尋常ではないことを。

彼女は、僕たち三人を、ゴミムシを見るような、それでいて、どこか悲しげな目で見つめていた。


「……もう、いい」

「え?」

「貴様らのような、自分のことしか見えていない愚物共に、何を言っても無駄だということが、よく分かった」


違う。

何かが、違う。

これは、いつもの罵倒じゃない。


僕のせいか?

僕が、さっき話を遮ったから、怒っているのか?


「もう、面倒は見れん」


彼女は、吐き捨てるように言った。

その言葉は、先ほどのプロットにはなかった、明確な「怒り」と「諦め」の色を帯びていた。


「結論から言おう。家の事情で、文化祭までこの部に関わることができなくなった。ちなみに、この件に関して、お前たちに非はない。ただ、貴様らのその、危機感のない馴れ合いの空気には、反吐が出る」


唐突な、しかし、あまりにも理不尽な宣告。

僕と天野さんは、呆然と立ち尽くす。


黒崎部長の言葉を、僕の脳が必死に分析しようと試みる。入力される情報は二つ。「家の事情」という不可抗力的な外部要因と、「馴れ合いへの嫌悪」という僕たちに起因する内部要因。この二つの事象に、論理的な整合性が取れない。僕の思考モデルが、激しいエラー音を立てる。


なぜだ? なぜ今、彼女がこんな表情をするのか、僕には全く理解できない。僕の能力は、あくまで過去の事象を再構築し、その構造を分析することに特化している。未来の予測や、リアルタイムで変動する他者の感情という、観測不能な変数を前にすると、僕の分析眼など、驚くほど無力だ。それは、僕の致命的な欠陥。


結果として、僕の思考が弾き出した結論は、あまりにも稚拙なものだった。これは、八つ当たりだ――と。あまりにも複雑で、僕の処理能力を超える感情の発露を、そう分類することでしか、僕は目の前の現実を理解できなかったのだ。

だが、その原因を作ったのが僕たちであることは、否定しようのない事実だった。


「……そんな、急に」


それまで僕のまわりをひだまりのようにぽかぽか照らしていた、天野さんという太陽に急に雲がかかった。彼女の声が、震えている。


黒崎部長は、そんな僕たちを一瞥すると、興味を失ったように、スマートフォンを取り出した。そして、どこかへと電話をかける。


「……私だ。……ああ、緊急事態だ。部室まで来い。……文句を言うな。お前が顧問だろうが、ツキヨム」


ツキヨム? 聞いたことのない名前に、僕の思考が停止した。

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