第24話 雪だるまとパフェの解剖学
文芸部室の長机に広げられた、一枚の大きな白紙。
左側には、天野光が描いた、子供の落書きのような、しかし不思議な熱量を放つ「幸福」の絵。
右側には、僕、神崎一樹がその絵を翻訳し、再構築した、無機質な「物語の骨格」。
僕と天野さんは、その奇妙な設計図を挟んで、一言も話せずにいた。昨日までの敵対的な緊張とは違う。何を、どう始めればいいのか、二人とも皆目見当がつかないのだ。これは、未知の言語で書かれた組立説明書を前にしたような、途方もない手詰まり感だった。
「……何をしている、凡俗ども」
沈黙を破ったのは、やはり黒崎部長だった。彼女は、窓際の席で組んでいた脚を優雅に組み替え、心底退屈だと言わんばかりの声音で続けた。
「仕様書は提示された。建築家は、素材を用いて、さっさと組み上げてみせろ。それとも何か? 君のその高尚な分析能力は、いざ実践となると、何の役にも立たない、ただの飾り物だったとでも言うのかね」
その挑発に、僕は思考のスイッチを強制的に切り替えた。そうだ。僕の役割は建築家。ならば、まずは僕が最初の設計図を描かなければ、このプロジェクトは一歩も進まない。
僕は、右側に書き留めた自分の分析メモを元に、原稿用紙にペンを走らせ始めた。
天野さんが描いた、あの拙い絵。それを、可能な限り正確に、客観的な文章へと変換する。これこそが、僕の能力の真骨頂のはずだ。
数分後、僕は書き上げた一節を、無言で机の中央へと滑らせた。
『被験体A(男性)と被験体B(女性)は、公園のベンチに着席している。両者の物理的距離は約30センチ。中央には、高さ25センチのパフェが配置され、器には二本のスプーンが挿入されている。被験体Aはスプーンを行使し、パフェ上部のバニラアイスクリーム部分を摂取。ほぼ同時に、被験体Bはイチゴを対象として、同様の行動を開始した』
完璧だ。感情というノイズを完全に排し、状況だけを記述した、美しいまでに客観的な文章。
だが、その原稿を読んだ天野さんは、きゅっと眉をひそめた。
「うーん……。書いてあることは、合ってる、けど……全然、こんな感じじゃなかった」
「……どういう意味だ」
僕は、苛立ちを隠せずに問い返した。
「君が描いたものを、僕は忠実に言語化した。これ以上、正確な描写はないはずだ」
「正確かもしれないけど、全然『幸福』じゃないよ!」
天野さんの声が、少しだけ大きくなる。
「センチとか、そういうことじゃないの! なんていうか……もっと、こう、空気がふわって暖かくて、隣に座ってるのがちょっと恥ずかしくて、ドキドキして。スプーンは冷たいんだけど、アイスはすごく甘くて……。それで、相手の顔を見たいんだけど、見れなくて、でも、ちらって見たら、向こうもこっちを見てて、わってなって……そういう感じ!」
彼女は、身振り手振りを交えながら、必死に言葉を紡ぐ。それは、僕が書いた文章には一欠片も含まれていない、混沌とした感情と、生々しい感覚の洪水だった。僕の設計図に、彼女は「壁の材質はもっと暖かく」「窓からは光を入れて」「部屋の匂いは甘くして」と、次々に無茶な要求を突きつけてくる。
「……分かった」
僕は、一度ペンを置いた。そして、彼女に新たな提案をする。
「僕が一行、書く。それに対して、君が、君の言う『感じ』を、言葉で付け足してくれ。それを、繰り返す」
それは、僕のプライドをかなぐり捨てた、苦肉の策だった。僕の完璧な設計図に、彼女の落書きを許可する行為に等しい。
僕らの奇妙な共同作業が、始まった。
僕『彼は、パフェにスプーンを伸ばした』
天野「その時、ちょっとだけ指先が触れそうになって、心臓が『どきっ』てなるの!」
僕『……分かった。『指先が触れそうな距離感に、彼は内心、動揺していた』」
天野「ううん、『内心』とかじゃない! もっと、こう、息が一瞬、止まる感じ!」
遅々として、進まない。僕が論理を積み上げようとすると、彼女が感情でそれを破壊する。まるで、賽の河原の石積みだ。
その、あまりにも非効率的なプロセスを、黒崎部長は面白そうに眺めていた。やがて、彼女は、ふっ、と息を吐き、助言とも罵倒ともつかない言葉を放った。
「建築家。君の建てたビルは、構造計算は完璧だが、窓が一つもないな。太陽の光も、風の匂いも入らない。それは、ビルではなく、ただのコンクリートの墓標だ」
墓標。その言葉が、僕の頭を殴った。
その時だった。僕らのやり取りを見ていた堂島が、静かに口を開いた。
「パラドックスだ。データ統合のプロセスは非効率的だが、出力される情報の解像度は、明らかに上昇している。誤差率の上昇と、感情表現の忠実度が、同時に向上している。興味深い現象だ」
僕は、目の前の原稿用紙に視線を落とした。
そこには、僕が書いた活字のような整然とした文章の行間に、天野さんの書いた、丸っこくて、感情的な、たくさんの注釈が書き込まれていた。
『もっとゆっくり!』
『ここで笑う!』
『夕日の色を足して!』
それは、もはや僕一人の作品ではなかった。
僕の設計図の上に、彼女の感情が、無秩序に、しかし、鮮やかに上塗りされている。それは、建築家と素材というよりは……。
不意に、天野さんが僕の原稿の余白に、さらさらと何かを描き始めた。
それは、小さな太陽のマークだった。
「ここに、こういう光が当たってる感じ」
僕は、その小さな太陽のマークと、彼女の横顔を、ただ黙って見つめていた。
僕らは、まだ共犯者にはなれていない。
だが、目の前にあるこの、ぐちゃぐちゃで、矛盾だらけで、そして、ほんの少しだけ体温を持った原稿は……、僕ら二人が、初めて「共犯」で作り上げた、奇妙な作品の、最初の断片だった。
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