第23話 共犯者のための仕様書
共同執筆、という名の地獄が幕を開けた翌日の放課後。
文芸部室の長机。その長辺を挟んで、僕、神崎一樹と、天野光さんは、まるで互いが汚染区域であるかのように、正面から向き合って座っていた。彼女の表情の些細な変化さえもが視界に入ってしまう、逃げ場のない配置。僕らの間に置かれた、まっさらな原稿用紙の束だけが、この異常な関係性を無言で告発している。
この奇妙な実験を監視する科学者のように、黒崎部長は窓際の指定席で腕を組み、堂島は部屋の隅で、いつも通り、僕らの存在など意に介さぬ様子で分厚い本を広げていた。
「……さて」
沈黙を破ったのは、黒崎部長だった。その声には、これから始まる茶番劇を心待ちにするような、悪趣味な響きがあった。
「素材と建築家。最初の共同作業を開始したまえ。この私を、退屈させるなよ」
その号令を合図に、僕は思考を切り替えた。感情はノイズだ。この不条理な状況で、僕がすべきことはただ一つ。与えられたタスクを、最も効率的に処理すること。僕は、正面に座る天野さんに、あくまで事務的に話しかけた。
「天野さん。作業を効率的に進めるため、まず、君が提供すべきデータの仕様を定義したい」
「……しよー?」
「ああ。君が体験した『幸福』のシーン。その時の状況を、時系列に沿って、まずは言語化してほしい。そして、その各項目に対し、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の五感、および、それによって生じた内的感情の変化を、可能な限り客観的な言葉で記述して提出してくれ。それが、僕が物語を構築するための、最初の設計図になる」
一気に、淀みなくまくしたてた。僕自身の言葉でありながら、どこか黒崎部長の理路整然とした口調が乗り移ったかのようだ。そうだ、これでいい。感情という混沌を、論理という名のメスで切り分け、構造化する。これこそが、僕の、僕だけの戦い方だ。脳内で、完成された設計図が組み上がっていく高揚感があった。
だが。
「……意味、わかんない」
僕の築き上げた論理の塔は、天野さんのたった一言で、その土台から砕け散った。その瞳には、昨日僕に向けられたものと同じ、静かな拒絶の色が浮かんでいる。
「客観的な言葉って、何? 嬉しいのは、嬉しいからだし、楽しいのは、楽しいからだよ! どうして、それをいちいち分解しなきゃいけないの? そんなの、私が感じた気持ちと、全然違うものになっちゃう!」
「違う。それは、君の主観だ。主観的な情報は、そのままでは物語の素材として扱えない。一度、客観的なデータに分解し、僕が再構築することで初めて……」
「だから、それが嫌だって言ってるの!」
議論は、完全に平行線だった。僕が論理と効率を説けば説くほど、彼女は感情と直感を盾に、心を閉ざしていく。共犯者? なれるはずもなかった。僕らは、互いの言語が通じない、異星人同士だった。
この非生産的なやり取りを、黒崎部長は愉悦の表情で見つめている。僕らの衝突と断絶こそが、彼女が望んだ文学的風景なのだろう。
このままでは、全てが破綻する。僕の思考が焦りに染まり始めた、その時だった。
「――インターフェースの不一致だ」
静かな、しかし有無を言わさぬ声が、僕らの議論を遮った。
堂島だった。また、この男か。僕の思考が袋小路に迷い込むたびに、彼はなんの前触れもなく現れ、僕が見つけられなかった最適解を、さも当然のように提示する。その無機質な声を聞くたびに、僕は安堵と、そして、自身の無力さを突きつけられるような、微かな苛立ちを覚えた。
彼は本から顔を上げると、僕と天野さんを交互に見た。
「神崎一樹は、テキストベースの構造化データを要求している。だが、天野光の出力形式は、非構造化された、アナログな感情データだ。互換性のないフォーマットで、直接データ転送を試みれば、エラーが発生するのは必然。新たなプロトコルを導入する必要がある」
彼はそう言うと、席を立ち、僕らの間のテーブルに、一枚の大きな白紙を広げた。そして、その中央に、一本の線を引く。
「天野さん。君は、左側に」
彼は、天野さんの前に、一本の鉛筆を置いた。
「君は、文章を書くな。絵を描け。図でも、落書きでもいい。君が『幸福』だと感じた瞬間の情景を、君の感情のままに、ここに描き出せ。言葉にならないものは、言葉にしなくていい」
「え……絵?」
「そして、神崎一樹」
今度は、僕の前に、一本のボールペンを置く。
「君は、右側に。彼女が描いた絵を見て、そこから読み取れる物語の構造、登場人物の行動、そして、彼女が描ききれなかったであろう、言葉の断片を書き出せ。……これは、会話ではない。翻訳だ」
翻訳。その言葉に、僕は息を呑んだ。
それは、僕の異常性を、全く違う形で使えという、驚くべき提案だった。彼女の感情を分析するのではない。彼女の表現を、読み解け、と。
僕らは、戸惑いながらも、その奇妙な仕様書に向き合った。
天野さんは、しばらく躊躇していたが、やがて、何かを決意したように鉛筆を握ると、紙の上に線を描き始めた。
それは、リアルな風景画ではなかった。
公園のベンチらしきものの上に、二人の人間が、まるで雪だるまのように単純な形で描かれている。そして、二人の間には、一つのカップから、二本のスプーンが突き出た、巨大なパフェ。彼女の筆跡は、拙く、子供の落書きのようだったが、その絵全体から放たれる、暖かく、少しだけ照れくさいような空気は、不思議なほど雄弁だった。
僕は、その絵を、ただじっと見つめた。
雪だるまのような、のっぺらぼうの二人。だが、その距離感は、明らかに親しい者のそれだ。巨大なパフェ。それは、幸福感の誇張表現か。二本のスプーン。
僕は、無意識のうちに、ボールペンを握っていた。そして、右側の白紙に、言葉を刻み始める。
『要素:パフェ《共有物》。
行動:一つの器から、二人で食す。
心理的距離:パーソナルスペースの消失。極度の親密さ。
想定される会話①:「あ、そっちのイチゴ、大きい!」
想定される会話②:「……なんか、恥ずかしいね」』
僕らは、一言も交わしていない。
だが、白紙の上の、左側の混沌とした感情と、右側の整理された論理の間で、確かに、一方通行ではない、微かな情報の流れが生まれた。
それは、まだ共犯関係と呼ぶには、あまりにも拙く、不確かなプロトコル。
だが、僕らの奇妙な共同作業は、確かに、その最初の仕様書を、手に入れたのだ。
窓際で、黒崎部長の唇が、ほんのわずかに、満足そうに歪んだのを、僕だけが見ていた。
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