第18話 幸福の解剖結果

翌日の放課後。文芸部の部室の空気は、僕の主観では、昨日よりも明らかに密度が高かった。僕の手には、一晩かけて推敲を重ねた、天野光に関する観察レポートが握られている。その数ページが、僕が今まで提出したどの原稿よりも重く感じられた。


部室の指定席では、黒崎部長がハードカバーの本を開いている。天野さんは、文化祭の部誌のレイアウト案をスケッチブックに描いているようだ。堂島は、相変わらず部屋の隅で、今日は地形図のようなものを眺めている。

僕の入室に気づいた黒崎部長が、本から目を離さないまま、氷のような声で言った。


「……それで? 報告はどうなった、一樹。幸福の解剖結果は? 被験体から、興味深いデータは抽出できたのかね」


その言葉に、天野さんが「かいぼう?」と不思議そうな顔でこちらを見る。彼女はまだ、あの時言われた『被験体』という言葉が、まさか本気だとは思っていない。僕の罪悪感が、わずかに胸を刺す。


僕は観念し、レポートを彼女の机にそっと差し出した。


「……これが、僕なりの結論です」


「ふん」


黒崎部長は、まるで昆虫標本でも見るかのような手つきでレポートを受け取ると、その一行目に目を落とした。そして、感情の読めない声で、そこに書かれた僕の仮説を読み上げた。


「『幸福とは、状態ではない。失敗と、仲間からの肯定と、そして、それに応えようとする意志の間で発生する、『回復』のプロセスそのものである』……だと?」


彼女は、レポートをめくり、僕が記述した観察記録――昨日のバスケ部の練習風景の描写――を追っていく。


「『被験体は、練習試合において決定的なシュートを失敗。一時的に、表情筋の弛緩、瞳孔の収縮など、明確な負の反応を示す。しかし、直後、チームメイトからの物理的接触(背中を叩く)および、肯定的発声(『ドンマイ』)という外部介入を受け、僅か3.4秒で、失敗前よりも高い周波数の発声と、より大きな口角の上昇を伴う、正の反応へと復帰した』……」


読み終えた黒崎部長は、しばらく黙り込んでいた。

部室の沈黙を破ったのは、天野さんの、少し頬を赤らめた声だった。


「……え? もしかして、この前の『被験体』って……本当に、私のことだったんだ。だから、見てたの……?」


しまった、という感情と、これで良かったのかもしれない、という奇妙な安堵が僕の中で交錯する。

僕がしどろもどろになっていると、黒崎部長は、ふっ、と鼻で笑った。


「……ほう。凡俗の行動原理を、随分と詩的に表現したものだな。だがな、一樹。これはただの観察記録だ。物語ではない。この『回復』とやらを、君は、どうやって文章に落とし込むつもりだ?」


彼女は、僕の仮説を否定しなかった。ただ、その仮説を、どう「創作」へと昇華させるのか、その一点を問うてきた。僕が答えに詰まった、その時だった。


「『プロセス』か。興味深い定義だ」


部屋の隅から、堂島の静かな声がした。

「状態A(失敗)から、外部からの介入(肯定)を経て、状態B(再起)へ遷移するシステムモデル。その遷移におけるエネルギー効率や、介入の最適タイミングを数値化できれば、再現性のある幸福モデルを構築できるかもしれん」


「幸福の、モデル……?」


天野さんが、信じられないものを見るような目で堂島を見ている。僕らの議論は、またしても常人には理解不能な領域へと突入しようとしていた。


その混沌を、黒崎部長の一言が、断ち切った。


「一樹」


彼女は、僕の目をまっすぐに見据えて、言った。

「君が提出したのは、単なる観察記録ではなかったと訂正しよう。これは物語ではないが、ここには物語の骨格がある。葛藤、挫折、外部からの介入、そして再生。……君は無意識のうちに、幸福の『設計図』だけでなく、小説の『プロット』を書き上げていたというわけだ」


彼女の言葉に、僕は息を呑んだ。僕が必死で集めたデータの羅列が、この人の手にかかれば、物語の構造として再定義されてしまう。


「ならば、書け」


彼女は、僕にレポートを突き返した。

「この、青臭くて人間臭い仮説を証明するための、血の通った幸福のシーンを。君が書いたあの空っぽのカフェの代わりに、この『回復のプロセス』を描いてみせろ。それが、割れた卵の絶望に拮抗しうる、唯一の光になる」


それは、命令だった。

地獄のような観測の果てに、僕は、ようやく描くべきものの輪郭を掴んだ。


僕は、返されたレポートを強く握りしめた。

そして、少しだけ顔を赤らめながら、心配そうにこちらを見ている天野さんに、視線を向けた。

彼女こそが、僕の物語の、設計図そのものだった。

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