第17話 幸福の観測、あるいは地獄の始まり

黒崎部長から「天野光の幸福を分析せよ」という常軌を逸した指令を受けてから一夜。僕の高校生活は、その様相を一変させた。


これまでの僕にとって、教室とは、自身という存在の輪郭を希薄にし、背景に溶け込むための、安全な迷彩空間だった。だが、今は違う。教室は、僕の異常性をフル回転させなければならない、極度の緊張を強いられる観測フィールドと化した。


僕の席は、窓際の後方。そして、観測対象である天野光さんの席は、教室の中央、教卓に近い前方の列。その距離、約7メートル。遠すぎず、近すぎず、ストーカー行為――いや、部長の言うところの「フィールドワーク」には、絶妙なポジションだった。


僕は、ペンを握る右手の角度を不自然にならないよう調整し、ノートの端に、彼女の行動を暗号めいた記号で記録していく。


『08:45、被験体、入室。クラスメイトA、B、Cに対し、半径3メートル以内での能動的発声を確認。声のトーン、平常時より約15%高い。口角の上昇角度、左右均等』

『09:22、一限目、数学。教師の冗談に対し、クラスの平均反応速度より0.2秒早く笑う。これは、周囲の空気を肯定し、円滑な人間関係を維持しようとする、彼女の行動原理の表れか』

『10:55、休み時間。女子生徒D、Eと会話。Dの発言時、被験体は平均5秒に一度の頻度で頷き、Dの話す内容への肯定的姿勢を身体言語で示す。興味深いのは、その際の視線が、Dの目と口元を交互に、極めて規則的に移動している点だ。相手に「聞いている」という印象を最大化するための、無意識の最適化行動と推測される』


まさに、地獄だった。

僕の脳は、彼女の笑顔を笑顔としてではなく、表情筋の収縮パターンとして認識し、彼女の快活な声を、意味ではなく周波数のデータとして処理しようとする。黒崎部長の命令は、僕がずっと心の奥底に封じ込めていた「人間を記号として分解する」という、僕自身の最も忌むべき性質を、強制的に引きずり出す行為だった。


その時だった。

「――ん? 神崎くん、どうしたの? 難しい顔して」

不意に、すぐ近くから声がした。

見ると、休み時間、僕のすぐ前の席の男子に用事があったらしい天野さんが、不思議そうな顔で僕のノートを覗き込もうとしていた。


まずい。


「な、なんでもない!」

僕は咄嗟にノートを伏せ、心臓が背中から飛び出しそうになるのを感じた。僕の異常な行動に、彼女が不信感を抱く確率は、現時点で90%を超えている。終わった。社会的に抹殺される。


だが、僕の観測は、致命的に間違っていた。


「そっか! もしかして、また小説のネタ出し? すごいね、いつも頑張ってて! 黒崎部長によろしくね!」


彼女は、僕の挙動不審な態度に一片の疑いも抱かず、太陽のように笑うと、ひらひらと手を振って自分の席に戻っていった。

……なんだ?

僕の防御シールドは、彼女の100パーセントの善意と信頼の前で、全く意味をなさなかった。まるで、高度なセキュリティシステムが、あまりにも単純な「あいことば」の前で、無力化されるように。


混乱したまま、僕は放課後を迎えた。

彼女を観測するため、僕は女子バスケ部が練習している体育館の二階ギャラリーに、亡霊のように潜んでいた。


コートの中の彼女は、教室にいる時とはまた違う輝きを放っていた。汗を流し、息を切らし、仲間を鼓舞する。それは、計算されたコミュニケーションではなく、もっと本能的で、剥き出しの生命力そのものに見えた。


僕は、その一つ一つの動きを、脳内に焼き付けていく。ドリブルのリズム、パスを出す瞬間の視線の動き、シュートを放つ腕の角度……。

その時だった。

試合形式の練習で、彼女がレイアップシュートを放つ。それは、綺麗にリングをすり抜けるはずだった。だが、ボールは無情にもリングに弾かれ、あらぬ方向へと飛んでいく。


「――っ!」


一瞬、彼女の顔から、快活な笑顔が消えた。

眉間に刻まれた、ほんの一瞬の、深い悔しさ。僕が今まで観測したことのない、マイナスの感情。

だが、それも、本当に一瞬のことだった。


「ごめーん! 次、取り返す!」


仲間の一人が、ぽん、と彼女の背中を叩く。すると、彼女は次の瞬間には、もう顔を上げ、先ほどよりもっと大きな声で、もっと明るい笑顔で、そう叫んだのだ。


僕は、ギャラリーの隅で、息を呑んだ。

そして、無意識のうちに、ノートに新しい一行を書き加えていた。


分かった、かもしれない。

彼女の「幸福」の正体が。

それは、常に完璧で、常にポジティブな「状態」のことではない。


僕は、震える手で、ペンを走らせた。


『幸福の構造分析 - 被験体:天野光。

仮説1:幸福とは、状態ではない。失敗と、仲間からの肯定と、そして、それに応えようとする意志の間で発生する、『回復』のプロセスそのものである』


僕の地獄のような一日は、一つの仮説を産み落として、ようやく終わりを告げた。

この、あまりにも人間的な結論を、あの悪魔のような部長に、僕はどう報告すればいいのだろうか。

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