第16話 幸福の設計図

「……まあ、悪くない」


黒崎部長のその一言が、部室の空気に張られていた細い糸を、ぷつりと断ち切った。途端に、堰を切ったように安堵の空気が広がる。


「やった……! やったね、神崎くん!」


隣で、天野さんが満面の笑みで僕の腕を軽く叩いた。その屈託のない喜びように、僕もようやく自分が息を詰めていたことに気づく。僕の文章と、彼女の絵。バラバラだった僕らの表現が、確かに一つの作品として、この気難しい部長に認められたのだ。


だが、その感傷的な空気を切り裂くように、黒崎部長は冷ややかに言い放った。


「感傷に浸っている場合か、凡俗ども」


彼女は、僕の原稿の束をトン、と指で叩く。ただし、今度は最後のページではなく、最初のページを。


「クライマックスが及低点に達したことで、新たな問題が浮上した。この物語の、冒頭部分だ」

「冒頭、ですか?」

「そうだ。今のこの作品は、着想と結末はそれなりに見られるが、胴体が致命的に貧弱な、いびつな生物に成り下がっている。アンバランス極まりない」


彼女の指摘は、的確だった。僕の『コンクリートの涙』の冒頭は、主人公が後に彼を裏切る恋人と過ごす、ありふれた幸福な日常を描いたパートだ。正直、クライマックスの絶望を描くための、記号的な前フリとしてしか機能していなかった。


「君が描いたこの『幸福』は、ただの概念だ。公園でのデート、カフェでの会話……。どこかのメロドラマから借りてきたような、体温のない風景の羅列。こんな空っぽの幸福が壊れたところで、読者の心は一ミリも動かん。割れた卵の絶望が真に輝くのは、その卵が、いかに温かく、生命力に満ちていたかを、読者が追体験できていてこそだ。……分かるかね、一樹」


分かる。痛いほどに。

僕の異常性は、物事を分解し、その構造を分析することには長けている。絶望や悲しみのように、原因と結果が比較的明確な事象は、再構築しやすい。だが、「幸福」は違う。それはあまりに曖昧で、流動的で、論理で割り切れない、捉えどころのない現象だ。僕の分析能力が、最も苦手とする分野だった。


僕が言葉に詰まっていると、天野さんが助け舟を出すように、快活に言った。


「幸福なシーン、かぁ。それなら簡単だよ! 二人で遊園地に行って、おっきいパフェを食べるとか、そういうのじゃダメかな?」


それは、太陽のような彼女らしい、一点の曇りもない「幸福」のイメージだった。だが、その提案は、黒崎部長によって一刀両断に切り捨てられる。


「パフェだと? 遊園地だと? 君は、中学生の交換日記でも書いているつもりか。そんな商業主義に汚染された、規格品の楽しさを描いてどうする。それは幸福ではない。ただの暇つぶしだ。本質的な人間の感情からは、最も遠い」


「そ、そんな……!」


天野さんの純粋な提案は、文学的価値観の前に砕け散った。

二人の議論が紛糾しかけたその時、これまで黙っていた堂島が、静かに口を開いた。


「問題は、イベントの内容ではない。空間の定義だ」


彼は、僕の原稿の冒頭部分を指差した。


「『お洒落なカフェ』。この一文が、全ての失敗の始まりだ。何をもって『お洒落』とするのか、その定義が作者と読者の間で共有されていない。床の材質は何か。テーブルの配置と、窓からの光の入射角は。登場人物が座る椅子の座面の高さすら、描写されていない。安定した物理空間が定義されていない以上、その中で発生するいかなる感情も、砂上の楼閣に過ぎん」


パフェ、文学、そして、椅子の座面の高さ。

幸福という一つのテーマを前に、僕らの議論は、またしても完全に分裂し、袋小路に迷い込んでいた。あの「割れた卵」の取材で生まれたはずの一体感は、脆くも崩れ去っていく。


僕が頭を抱えていると、黒崎部長は、ふう、と深く息を吐いた。そして、僕に、新たな、そしてあまりにも奇妙な指令を下した。


「……一樹。君に、課題を与える」

「課題、ですか?」

「そうだ。君が幸福を描けないのは、それを正しく『観測』したことがないからだ。君のその歪んだ眼で、幸福とやらを徹底的に分析し、レポートとして提出しろ」


彼女は、すっ、と指を伸ばし、ある一点を指し示した。

その指の先にいたのは――目を白黒させている、天野さんだった。


「……え、私?」


「いかにも。君の言うところの『幸福』の構造を、このバスケ部を被験体として分析してみろ。そこの脳筋が放つ、単純明快な輝きを構成する全ての要素を分解し、再構築するのだ」


それは、命令だった。

僕の異常性を、今度は、すぐ隣にいる仲間に、無遠慮に向けろという。


「それができれば、君にも少しは、体温のある文章が書けるようになるかもしれん。……せいぜい、面白いレポートを期待しているぞ。我らが鳥瞰学園文芸部の、名誉にかけてな」


悪魔のような笑みを浮かべる黒崎部長。

自分がこれから解剖されるとも知らずに、「え、えっと、協力するけど……?」と困惑する天-野さん。

そして、その会話には一切興味を示さず、カフェの椅子の最適な高さについて思考を巡らせている堂島。


僕の新たな地獄が、今、静かに幕を開けた。

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