第14話 芸術の残骸
アスファルトの上に、一つの命が、呆気なく広がっていた。
僕ら四人は、その小さな悲劇の跡を、静かに覗き込んでいる。街灯の光が、粘り気のある白身を鈍く照らし、その中央に浮かぶ黄身は、まるで全てを見透かす瞳のようだった。色は色として。
僕がノートに書き留めた一行を、静かに差し出す。最初に覗き込んだのは、隣にいた黒崎部長だった。彼女は声もなくその文字を追うと、しばらく黙り込み、やがて、ふん、と鼻を鳴らした。
「……凡俗にしては、まともな一行だ。感傷に溺れず、事実だけを突きつけている。及第点、といったところか」
それは、彼女が与えうる、最大級の賛辞に違いなかった。
次に、天野さんが僕のノートを覗き込む。
「『命が、一つ、落ちていた』……。そっか。卵だけど、命なんだ。……うん、なんだか、すごく、悲しい」
彼女の声は震えていた。僕の言葉は、彼女の太陽のような感性を通して、純粋な悲しみとして再構築されたらしかった。
最後に、堂島が、僕の手元を一瞥した。
「『落ちていた』。客観的な事実の描写。無駄がない。構造的に安定している」
三者三様の肯定。僕が放った言葉は、三つの異なる座標軸の上で、奇跡的にその意味を保っていた。僕の胸の奥で、今まで感じたことのない、小さな熱が生まれた。
だが、その静謐な時間は、唐突に現実によって断ち切られた。
「……あのー」
天野さんが、おずおずと手を上げた。
「これ、どうしよう? このままじゃ、誰か滑って危ないし……それに、なんか、ゴメンなさいって感じがする」
彼女が指差す先には、僕らの芸術的探究の残骸――無惨に砕け散った卵がある。そうだ。僕らは、感傷や分析に浸る前に、この現実に対処しなくてはならない。
しかし、黒崎部長は、その現実的な提案を、心底くだらないとでも言うように一蹴した。
「知るか。芸術が生まれた瞬間の痕跡だ。このまま保存し、後世への遺産とすべきだろう」
「いや無理ですよ! アリとか……アリとか、寄ってきますって!」
天野さんの当然の反論に、堂島が静かに加勢する。
「彼女の言う通りだ。有機物を路上に放置することは、地域の生態系に意図せぬ影響を与える。また、卵の白身の主成分であるアルブミンは、乾燥するとアスファルトの
「……君たちは、本当に夢がないな」
黒崎部長は、心の底からうんざりしたように溜息をついた。
僕がどうしたものかと思案していると、天野さんが「ちょっと待ってて!」と言い残し、先ほどのコンビニへと駆け足で戻っていった。
数分後、彼女はペットボトルの水と、店員さんにもらったのであろう数枚の紙ナプキンを手に、息を切らしながら帰ってきた。
「これで、お掃除しよう!」
そう言って、彼女は躊躇なくアスファルトにしゃがみ込むと、紙ナプキンで卵の残骸を拭き取り始めた。その姿を見て、僕も慌てて手伝う。黒崎部長は、汚物でも見るかのような目で僕らに視線を送っていたが、腕を組んだまま口は挟まずにいた。堂島は、その一連の清掃作業における、水の最適な散布角度と拭き取りの運動効率を、静かに観測していた。
数分後、アスファルトの上には、微かなシミと水の痕跡だけが残った。僕らの最初の「取材」は、こうして呆気なく終わった。
帰り道、四人の間には、気まずいような、それでいて、何かをやり遂げたような奇妙な連帯感が漂っていた。
「はい、これ。おつかれさま」
駅に向かう道すがら、天野さんが僕らに小さな紙パックのジュースを差し出した。コンビニに戻った際に買ってきていたらしい。僕と堂島は、素直にそれを受け取った。
問題は、黒崎部長だった。彼女が、このような庶民的な施しを受け取るとは思えなかった。
「……いらん」
彼女は、ぷい、と顔をそむけた。だが、天野さんは諦めない。
「いいから、いいから! 部長、さっきからずっと難しい顔してるし、糖分足りてないって!」
「……なっ、私は別に……!」
「はい!」
有無を言わさぬ笑顔で、天野さんは部長の手にリンゴジュースを押し付けた。黒崎部長は、一瞬、その手を振り払いそうになったが、何かを諦めたように小さく息を吐くと、そのパックを無言で受け取った。そして、僕らに見えないように顔を背けながら、付属のストローを、ちいさく、突き刺した。
その夜、僕は自室の机で、まっさらな原稿用紙に向かっていた。
手元には、あの取材で書き留めた一行だけが記されたノートがある。
『アスファルトの上に、命が一つ、落ちていた』
この一行を、心臓にする。
ここから、血の通った言葉を、物語を、紡ぎ出すのだ。
あの奇妙で、厄介な三人の仲間たち。彼らがいたからこそ見つけられた、この一行を裏切らないための物語を。
僕は、握りしめたペンを紙の上に走らせ、最初の一文をしっかりと記した。
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