第13話 フィールドワークという名の奇行

鳥瞰ちょうかん学園の校門を出て、コンビニへと向かう夕暮れの道は、僕にとって見慣れたはずの風景を、全く異なるものに変えていた。


先頭を歩くのは、天野さんだ。まるでピクニックにでも行くかのように、その足取りは軽い。「こっちの道が近道だよ!」と、時折振り返っては太陽のように笑う。彼女にとって、この奇妙な取材は、純粋な冒険なのだろう。


その後ろを、黒崎部長が腕を組んで、不機嫌を隠そうともせずに続いている。その全身からは「私は断じてこんな下らない行為に乗り気なわけではない」というオーラが放出されていたが、その瞳は、街路樹の葉の揺れから、すれ違う人々の服装の乱れまで、全てを値踏みするかのように鋭く動いていた。部室の外でも、彼女は批評家であり続けるらしかった。


僕、神崎一樹は、その二人の少し後ろを歩きながら、この異質な集団を観測していた。そして、僕の横には、堂島が、いつもと変わらぬ無表情で、完璧な等間隔を保って歩いている。彼の視線は、僕ら凡人が気にも留めない点に向けられていた。電柱の傾き、マンホールの蓋の紋様、アパートのベランダに干された洗濯物の配置……。彼にとって、この世界は巨大な設計図か何かのように見えているのかもしれない。


やがて、僕らの目の前に、煌々とした光を放つコンビニが現れた。


「着いた! さあ、運命の卵を買いに行こう!」


天野さんが、自動ドアをくぐりながら、朗らかに宣言した。

僕らもそれに続く。目的の品は、すぐに見つかった。冷蔵コーナーに整然と並ぶ、白い卵のパック。だが、そこで、最初の問題が勃発した。


「じゃあ、これでいっか!」


天野さんが、ごく普通の中サイズの卵パックを手に取ろうとした、その時だった。


「待て」


黒崎部長の冷たい声が、彼女の手を制した。


「馬鹿を言え。卵にも個性がある。その、いかにも工業製品然とした均一な白さは、文学的ではない。もっと、殻に絶望的な斑点の一つや二つあるような、いわくありげな卵を選べ」


「ええっ、卵にいわくなんて……」


「あるに決まっているだろう。全ての存在には物語がある。君のように、脳まで筋肉でできている人間には理解できんだろうがな」


部長が非現実的な要求を突きつけた、その横から、堂島が静かに口を挟んだ。


「問題は、色や斑点ではない。質量だ」


彼は、商品棚に並んだ卵のサイズ表記を、トントン、と指で叩いた。


「我々が再現しようとしているのは、高さ約1.5メートルからの自由落下による物体の破損シミュレーションだ。Mサイズの卵の平均重量は約60グラム。対して、Lサイズは約70グラム。この10グラムの差が、落下時の衝撃エネルギーを変化させ、黄身の飛散パターンに有意な差を生む可能性がある。よりダイナミックな結果を得るためには、Lサイズを選択するのが合理的だ」


文学的価値観と、物理学的合理性。

一個の卵を前に、あまりにも高尚で、あまりにも馬鹿げた議論が始まった。天野さんは、完全に目を白黒させている。


僕は、この混沌を収拾すべく、おずおずと提案した。

「……あの、とりあえず、Lサイズを買って、試してみませんか? 斑点については、その……マジックで書くとか……」

僕の後半の提案は、部長の鋭い一瞥によって、音になる前に霧散した。


結局、堂島のロジックが採用され、僕らはLサイズの卵を一パック購入した。

コンビニを出て、僕らは「実験」に最適な場所を探した。人通りが少なく、アスファルトの状態が良く、そして、物語の雰囲気に近い、一本の街灯だけが灯る、小さな公園の脇の道。そこが、僕らの舞台に決まった。


夕闇が、辺りを支配し始めている。街灯の白い光が、僕ら四人と、これから失われる一つの命を、ぼんやりと照らし出していた。

ゴクリ、と誰かが喉を鳴らす音が聞こえた。


「じゃあ……落とすよ?」


天野さんが、パックから取り出した一個の卵を、胸の高さに構えた。彼女の顔から、いつもの笑顔は消えている。僕らは皆、これから行われることが、ただの悪ふざけではないことを理解していた。


彼女の手が、そっと開かれる。

白い卵が、重力に従って、闇の中へと吸い込まれていった。


――パシャッ。


想像していたよりも、ずっと軽く、湿った音だった。

僕ら四人は、誰ともなく、その小さな悲劇の跡を、静かに覗き込んだ。


アスファルトの上に、一つの命が、呆気なく広がっていた。

流れ出した白身は、街灯の光を鈍く反射し、その中央で、原型を留めたままの黄身が、まるで何かを見つめる瞳のように、静かに、そこにあった。


「……なるほどな」


最初に沈黙を破ったのは、黒崎部長だった。


「絶望とは、こんなにも呆気なく、そして粘着質な形をしているのか……」


「……キラキラ、してない。全然……。なんだか、すごく、生々しい……」


天野さんが、震える声で呟いた。彼女の脳裏にあった感傷的なイメージは、このどうしようもない現実の前に、完全に覆されたようだった。


その横で、堂島は、スマホを取り出して様々な角度から写真を撮りながら、冷静に分析結果を口にしている。

「黄身の最大飛散距離は、縁石までの7.4センチ。白身は、アスファルトの微細な傾斜に沿って、南西方向に流れている。興味深い……」


三者三様の反応。

だが、僕、神崎一樹は、ただ、それら全てを、見ていた。

割れた卵の、どうしようもない現実を。

それを見つめる、三人のどうしようもない仲間たちの姿を。

僕が書こうとしていたものは、頭の中の理屈じゃなかった。目の前にある、この、名状しがたい全てだった。


僕は、静かにノートを取り出した。

そして、今、この瞬間にしか書けない、たった一行の言葉を、そこに刻んだ。


『アスファルトの上に、命が一つ、落ちていた』

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