第11話 名もなき僕らのプロトコル
深い沈黙だった。
僕が提示した「割れた卵」という着地点は、三者三様の「正しさ」が作り出した、奇妙な真空地帯の中心に、ただぽつんと置かれていた。誰が最初に、その沈黙を破るのか。僕は固唾をのんで三人の反応を観測していた。
最初に動いたのは、黒崎部長だった。
彼女は、僕の顔を値踏みするように、じっと見つめていたが、やがて、その唇の端が、ほんのコンマ数ミリだけ、吊り上がったように見えた。
「……ほう。凡俗にしては、面白いことを考える」
それは、いつもの罵倒の形を借りた、限りなく承認に近い言葉だった。
「感情を直接的に描写せず、状況――モノの破損という客観的事実だけで、内面の崩壊を暗示する。……悪くない。安直な感傷に逃げなかった点だけは、評価してやらんでもない」
「あ、ありがとうございます……」
僕が安堵の息を漏らした隣で、天野さんが困惑したように声を上げた。
「ご、ごめん! 私、ちょっとよく分からなくて……。どうして、卵が割れてるだけで、悲しいって分かるの? キラキラの涙のほうが、もっとストレートに気持ちが伝わるんじゃないかな……?」
彼女の疑問は、もっともだ。それは、読者の感情に最も素直に寄り添う、太陽のような視点だった。
その問いに答えたのは、意外にも堂島だった。彼は、いつの間にかノートに書き留めていた図面から顔を上げ、天野さんを――いや、僕ら全員を、静かに見据えていた。
「逆だ。ストレートだから、伝わらない」
「え?」
「『悲しい』と書かれた記号は、読者に『悲しい』という感情を強制する。だが、記号で示された感情は、あくまで作者のものであり、読者のものではない。読者は、それを追体験させられているに過ぎない」
彼は、僕の原稿を指で軽く叩いた。
「だが、『割れた卵』は、ただの現象だ。そこに意味はない。意味を付与するのは、読者自身だ。自身の経験や記憶と結びつけ、主人公の絶望を『発見』する。そのプロセスを経て初めて、物語は読者の内側で、本当の意味で再構築される。……君の提案は、そのための、極めて効率的なプロトコルだ」
プロトコル。堂島らしい、無機質な言葉だった。だが、その言葉は、僕が漠然と目指していたものを、的確に言語化していた。
「……なるほど。読者に考えさせる、ってことかぁ」
天野さんは、まだ完全には納得しきれない様子だったが、何かを掴みかけているようだった。その時、ふと、黒崎部長が僕に向かって、新たな問いを投げかけた。
「凡俗。君のその手法は、ある意味で、君自身の在り方に似ているな」
「え……? どういう意味ですか?」
「君は、今まで自分の名前を名乗らなかった。この私が、わざわざ『凡俗』という記号を与えてやるまで、君は名もなき存在だった。それはなぜだ? 答えは単純だ。君が、作者である自分自身を、物語から意図的に排除しようとしてきたからだ。自分の感情を、言葉を、そして『名前』という最大の記号を消し去ることで、読者に全てを委ねようとする。……それは、作家としては傲慢であり、人間としては臆病の証だ」
図星、だった。
僕の「異常性」は、他者の感情を分析し、理解することはできても、僕自身の感情を表現することを、極端に恐れていた。だから、僕は僕自身を物語から消そうとしてきた。僕が書く物語の主人公に、明確な名前が与えられていないのも、その無意識の現れだったのかもしれない。
「……確かに、そうかもしれません」
「そうかもしれん、ではない。事実だ。そして、それはこの文芸部が存在する、この場所にも言える」
部長は、窓の外に視線を投げた。
「我々は、ただ『文芸部』という閉鎖された空間で、観念的な議論を繰り返してきた。この部室が、どこの、何という学校に存在するのかさえ、意識の外に追いやっていた。だが、文化祭という外部との接続を前にして、我々はもう、名もなき存在ではいられない」
彼女は、再び僕に視線を戻した。その目は、有無を言わさぬ光を宿していた。
「名乗れ、凡俗。君の名は、なんだ」
それは、命令だった。
僕が、僕自身の物語の登場人物として、舞台に上がるための、最初のプロトコル。
「……
僕は、三人の視線をまっすぐに受け止めて、答えた。
「僕の名前は、
「かんざき、いつき……」
天野さんが、その名前を反芻するように呟いた。
黒崎部長は、ふん、と鼻を鳴らした。
「一樹、か。まあ、凡俗には過ぎた名だな。よかろう。これより、君は凡俗改め、一樹だ。そして、我々が活動するこの学び舎の名は――」
彼女は、まるで世界の法則を宣言するかのように、厳かに告げた。
「――
鳥瞰学園。全てを上から見渡す、神のような視点。それは、この部に集う僕らの歪さを、あまりにも的確に象徴する名前のように思えた。
神崎一樹。
私立鳥瞰学園、文芸部。
僕の物語のクレジットに、ようやく、最初の二行が刻まれた。
まだ、何も始まってはいない。
だが、僕の戦いは、確かに今、本当の意味で幕を開けたのだ。
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