第8話 太陽の侵食

「……なるほどな」


僕が提出した新たな掌編、『コンクリートの涙』を読み終えた堂島が、静かにつぶやいた。彼は原稿の余白を指でなぞりながら、僕の顔を見ずに言う。

「前回の指摘を受け、今回は登場人物の動線と部屋の物理的整合性に破綻はない。構造的には、安定している」


その言葉に、わずかな安堵を覚えたのも束の間だった。


「だが、根本がなっていない」


間髪入れずに、黒崎部長の鋭い声が僕の鼓膜を突き刺す。彼女は、僕の原稿を汚物でも見るかのような目で一瞥し、吐き捨てた。


「登場人物が流す涙の理由が、安直な感傷に過ぎん。魂が、泣いていない。これでは、水道の蛇口から流れる水と何ら変わりない。ただの現象だ。物語ではない」

「ですが部長、涙に至るまでには、論理的な動機付けを段階的に描写したつもりです。彼が過去に……」

「論理で魂が震えるなら、数学者は全員、歴史に残る詩人になっていると、前にも言ったはずだが?」


ピシャリ、と僕の反論は切り捨てられる。ぐ、と喉が詰まった、その時だった。


コン、コン。


控えめなノックの音が、議論で張り詰めていた部室の空気を震わせた。

僕と部長、そして堂島も、一瞬、会話を止めて顔を見合わせる。この部室を訪れる者など、僕ら以外にはいないはずだった。


「……どうぞ」


僕が言うと、扉がゆっくりと開いた。そこに立っていたのは――。


「あ、いたいた! この前の、同じクラスの……えっと、文芸部の人!」


太陽が、そこに立っていた。

クラスメイトの、天野光さん。彼女がそこにいるだけで、古紙と哲学の匂いに満ちたこの部屋の空気が、一瞬にして浄化されていくような錯覚を覚えた。


「あ、天野さん。どうしてここに……」


「この前の、ボールの件のお礼! それと、ちょっと気になってたから、来ちゃった」

彼女はてらいなく笑い、僕のほうに歩み寄ってくる。その視線が、机の上に置かれた原稿――僕の書いた『コンクリートの涙』――に落ちた。


「わ、すごい! これ、君が書いたの?」


「あ、いや、これはただの駄文で……」

僕が慌てて隠そうとするよりも早く、彼女はひょいと原稿を手に取った。


「駄目、かな? ちょっとだけ、読んでみても」

子犬のように首を傾げる彼女に、僕は「駄目だ」と言えるはずもなかった。ちらりと黒崎部長に視線を送ると、彼女は「好きにさせろ。駄文を読まれて恥をかくのは、君だ」とでも言いたげな冷たい目つきで、僕からすっと視線を外した。


天野さんは、その場で原稿を読み始めた。

真剣な眼差しが、僕が書いた文字の列を追っていく。時折、眉をきゅっと寄せたり、小さく息を呑んだりする。僕にとっては、もはや拷問に近い時間だった。


やがて、最後のページを読み終えた彼女は、ぱっと顔を上げた。その大きな瞳は、わずかに潤んでいるように見えた。


「……すごい」

絞り出すような声で、彼女は言った。

「すごいよ、君! この主人公の気持ち、すっごくよく分かる! 胸が、ぎゅーってなった……。まるで、心が読めるみたい!」

それは、僕がこれまで受けたことのない種類の、百パーセントの純粋な肯定だった。

いつも罵倒と否定の言葉しか浴びていない僕にとって、その全肯定のシャワーは、あまりにも刺激が強すぎた。


「あ、いや、そんなことは……」

僕がしどろもどろになっていると、それまで沈黙を保っていた黒崎部長が、ティーカップを置き、静かに口を開いた。


「……感傷的なだけだ。表面的な感情の動きに、安易に共感しているに過ぎん」


「そんなことないです!」

天野さんは、部長の言葉に初めて、はっきりと反論した。

「この子の痛みは、本物です。私、そう感じました!」


太陽と月が、僕の書いた拙い物語を挟んで、静かに火花を散らす。

その奇妙な光景に、僕はただ立ち尽くすことしかできなかった。


やがて、天野さんは何かを思いついたように、ポン、と手を打った。

「そうだ! ねえ、文芸部って、文化祭で部誌とか出すの?」


「……一応、出すことにはなっているが」

怪訝な顔をする部長に、彼女は満面の笑みを向けた。


「あのね、私、文章は書けないけど、絵を描くのはちょっとだけ好きなんだ! もしよかったら、君のこのお話に、挿絵を描かせてもらえないかな?」

その提案は、静謐だったこの文芸部の世界に投じられた、あまりにも明るく、そして破壊的な一石だった。


僕は、隣に座る黒崎部長の体感温度が、絶対零度近くまで下がったのを感じた。

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