第7話 三人目の定義
部室の空気が、真空になった。
壁の時計から、一秒ごと、部品が磨耗する微かな悲鳴が聞こえる。その人工的なリズムだけが、この場の時が停止していないことを示していた。窓から差し込む夕日が、僕と黒崎部長、そして――堂島巧の輪郭を、3つ仲良く床のはずれで直角に捻じ曲げていた。
「……あの、部長」
絞り出した声は、自分でも情けないほどにかすれていた。僕の問いに、黒崎部長は心底面倒くさそうに、しかしその瞳の奥には、僕の混乱を面白がっているような、悪趣味な光が宿っていた。
「ああ、彼か。見ての通り、文芸部員だが」
「いえ、そういうことではなくて……今まで、一度もその、認識したことがなかったんですが……」
僕の言葉に、部屋の隅でハードカバーを読んでいた堂島が、初めて顔を上げた。その目は、感情というフィルターを一切通していない、ガラス玉のように静かな光を宿していた。
「それは君の認識能力の欠陥だ。俺は、君が初めてこの部室のドアを開けたあの日から、ずっとこの椅子に座っている」
淡々と告げられた事実に、背筋が凍る。では、僕の目は、僕の脳は、彼の存在を意図的に「死角」へと追いやっていたというのか。僕の持つ「人間を再構築する」能力は、理解できない対象を、都合よく排除していたというのか。
黒崎部長は、ふ、と鼻を鳴らした。
「君がこの凡俗の『異常性』を見抜いたように、この男もまた、別の種類の『異常』を抱えているに過ぎん。……紹介しよう。堂島巧。この文芸部が所有する、最高の校正機であり、最も厄介な読者だ」
「校正機……ですか?」
「そうだ。彼は、物語をテキストとして読まない。空間の設計図として読み解く。行間から部屋の間取りを、家具の配置を、登場人物の動線さえも、三次元的に構築してしまう。君の書いたあの駄文の主人公が、壁にめり込んでいることを指摘したようにな」
僕が言葉を失っていると、堂島が静かに続けた。彼の声には、黒崎部長のような嘲りも、これから僕が対峙するであろう天野光のような明るさもない。ただ、絶対零度の事実だけがそこにあった。
「黒崎部長は、物語に『魂』を求める。君は、登場人物の行動原理に『論理』を求める。どちらも興味深いが、俺の観点からすれば、等しく無意味だ」
彼は、僕が昨日提出した原稿を、いつの間に手にしたのか、その薄い紙の束を指で弾いた。パサリ、と乾いた音がやけに大きく響く。
「物理法則を無視した空間の上では、どんな魂も、どんな論理も、ただのノイズでしかない。君の物語は、登場人物が壁にめり込んだ時点で、すでに崩壊している。その瓦礫の上で、どれだけ美しい言葉を並べようと、それはただの自己満足だ」
それは、批評というよりは、システムエラーの報告書に近い、どこまでも無機質な宣告だった。僕が今まで必死に積み上げてきた「論理」も、黒崎部長が至上とする「魂」も、彼にとっては等しく、議論の前提にすら値しない、取るに足らない要素だという。
「……では、君にとって、良い物語とは何なのだ?」
黒崎部長が、わずかに挑戦的な色を瞳に浮かべて問うた。彼女のプライドが、この「校正機」の断言を許さなかったのだろう。
堂島は、一瞬だけ考えるように視線を宙に彷徨わせ、やがて、静かに答えた。
「構造的に、美しい物語だ」
僕の「心理分析」と、黒崎部長の「文学至上主義」、そして堂島巧の「空間分析」。
この奇妙で歪な三角形の中心で、一体どんな物語が生まれるというのだろう。僕の日常という名の舞台に、あまりにも異質な変数が、二つも組み込まれてしまった。
僕の観測は、まだ始まったばかりだ。
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