第6話 死角の住人

黒崎部長に僕の「異常性」を看破されてから数日。文芸部室の空気は、奇妙な緊張と、ほんの少しの期待が混じり合ったものに変わっていた。僕が提出する原稿に対する彼女の罵倒は、以前よりも鋭く、そして的確に、僕の本質を抉るような言葉へと変化していた。


「……凡俗。君はまだ、自分の武器を正しく使う方法を理解していないらしいな」


その日、僕が提出した掌編小説を読み終えた部長は、深々と溜息をついた。今回の作品で、僕は初めて、自分の分析能力を意図的に創作へ取り入れてみたのだ。登場人物の行動原理を、過去のトラウマや家庭環境から逆算し、全てのセリフや行動に論理的な一貫性を持たせる、という試みを。


「一見すると、よく書けている。キャラクターの行動には、君の言うところの『論理的整合性』とやらがあるのだろう。……だがな。これはただの、よくできた人形劇だ。魂が、ない」


「魂、ですか……。ですが、キャラクターの心理は、これ以上なく正確に描写したつもりです。彼女がここで涙を流すのは、幼少期の……」


「そういうことではない!」


ピシャリ、と部長の鋭い声が僕の言葉を遮った。


「君がやっているのは、ただの答え合わせだ。『こういう過去があるから、こういう行動をする』。それは分析であり、批評家の仕事だ。創作ではない! 読者が求めているのは、理屈を超えた魂の叫びだ。この登場人物は、君という作者の掌の上で、ただ操られているに過ぎん!」


「しかし、論理が破綻した行動にリアリティは生まれません。それはただの、ご都合主義では……」


売り言葉に買い言葉。僕も、今回ばかりは簡単に引き下がるわけにはいかなかった。僕の能力の本質に関わる部分だったからだ。黒崎部長が求める「魂」と、僕が依って立つ「論理」。二つの価値観は決して交わることなく、議論は完全に平行線を辿っていた。部室の空気は、静かに、だが確実に熱を帯びていく。


その時だった。


「……その言い争いは、無意味だ」


凛とした、それでいて体温の低い声が、部室の静寂を破った。

僕と部長以外の、第三の声。


「え……?」


僕は、思わず声のした方を振り返った。

その声は、部屋の隅――今までただの背景だと認識していた、高い背もたれの椅子と本の山が作る影の中から聞こえてきた。


そこには、一人の男子生徒が座っていた。

細身の体に、少し癖のある黒髪。手にした分厚いハードカバーから目を離さないまま、彼はそこに「在った」。まるで、最初からそこに置かれていた調度品のように、完璧に空間に溶け込んで。


「……堂島。君の意見を聞こうか」


黒崎部長が、さも当然といった口調で彼に声をかける。その様子からして、二人は旧知の間柄らしい。


(ドウジマ……? 誰だ……? いや、待て、この部室には俺と部長しかいないはずじゃ……⁉ いつから、そこに……?)


僕の脳が、混乱の警報を鳴らす。記憶のアーカイブをどれだけ高速で検索しても、目の前の男子生徒に関するデータは一切存在しない。侵入者? いや、部長の態度がそれを否定している。


僕の混乱を意にも介さず、堂島、と呼ばれた生徒は、手元の本に視線を落としたまま、静かに口を開いた。


「そもそも、この物語は冒頭の三ページ目で、すでに崩壊している」


「なんだと……?」と、部長がわずかに眉をひそめる。


「この物語の舞台は、主人公が住む『家賃五万円、六畳一間のアパート』。君の描写によれば、部屋の広さは約9.9平方メートルだ。そこには、ベッドと本棚、小さなテーブルが配置されている」


彼は、僕が書いた原稿を一度も見ていないはずなのに、その内容を完璧に把握しているようだった。


「問題のシーン。主人公は、部屋を訪ねてきたヒロインと口論になり、『三歩下がって彼女と距離を取る』とある。だが、一般的な成人男性の歩幅を約70センチと仮定した場合、三歩で2.1メートル。部屋の壁の厚さを考慮した有効内寸と家具の配置から計算すると、彼は二歩目の途中で背後の壁に衝突する。三歩下がるという行動は、物理的に不可能だ」


「な……」


「つまり、彼は壁にめり込んでいる。この時点で、この物語の空間は崩壊しているんだ。崩壊した空間の上で、魂が叫ぼうと、心理がどう動こうと、それは全て虚構以下のバグに過ぎない。議論の前提が、成立していない」


淡々と、しかし有無を言わさぬ事実だけを並べ立て、彼はそう結論付けた。


黒崎部長は、珍しく言葉を失っているようだった。僕も、もちろん何も言えなかった。魂だとか、論理だとか、そんな高尚な議論をしていたはずが、足元の地面そのものが、根底から覆されたような衝撃。


僕は、呆然と彼を見つめた。

堂島巧。僕の知らない、三人目の部員。


(……いた。確かに、誰かいる。いつから? 俺が初めてこの部室のドアを開けた、あの日から? いや、そんなはずは……。だとしたら、今まで俺は、一体何を見て……?)


僕の日常という舞台に、なんの前触れもなく現れた、観測不能な登場人物。

彼の存在は、僕が信じてきた世界の輪郭を、静かに、そして確実にかき消していく。僕の背中に、今まで感じたことのない種類の、冷たい汗が流れた。

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