第5話 異常者のスケッチ

天野光あまのひかりという太陽に灼かれた翌日の放課後、僕は再び、月が支配する静謐な領域――文芸部の部室前に立っていた。


手には、一晩かけて書き上げたキャラクター・スケッチ。


僕の「異常性」を、良くも悪くも凝縮したレポート用紙の束だ。これが吉と出るか、凶と出るか。僕の観測では、おそらく後者だろう。


「失礼します」


重い扉を開ける。

窓際の指定席で、黒崎部長が組んだ脚の上にハードカバーの本を広げている。

文芸部の日常的光景だ。

今日の彼女は、麦茶ではなく紅茶を嗜んでいるようだった。カップから立ち上る湯気が、西日に照らされてきらきらと光っている。


「……来たか、凡俗。ずいぶんと遅いお着きだな。まさか、廊下で迷子にでもなっていたのか? 君の脳内コンパスは、鳩よりも性能が低いと見える」


「すみません。少し、考え事をしていました」


「ほう。君が? 考える葦というよりは、風に吹かれて飛んでいくレジ袋のような君が、一体何を考えるというんだ」


いつも通りの罵倒。だが、不思議と心は凪いでいた。嵐の前の静けさ、というやつかもしれないが。僕は覚悟を決め、手に持っていたレポートを彼女の机にそっと差し出した。


「例の、キャラクター・スケッチです。観察対象は、クラスメイトの天野光さんで」


「ふん。まあ、誰を観察しようが、君の節穴を通した情報など、信頼性はゴシップ誌以下だろうがな」


彼女はそう言いながら、ティーカップをソーサーに置くと、レポートに手を伸ばした。それはそれは、優雅な曲線を描いて。ただ、その指先はといえば、汚れたものに触れるのを心底厭うように、ページの端をつまむようにした。


「『キャラクター・スケ-ッチ、天野光』。……一行目から、工夫も何もない。芸がないな、全く」


そのあと漏れたかすかな鼻息には、嘲笑の色があった。僕はただ、黙ってその言葉と鼻息を受け止めた。判決を待つ被告人とは、きっとこういう心境なのだろう。


黒崎部長は、パラパラとページをめくりながら、時折、鼻で笑ったり、小さく溜息をついたりしていた。だが、レポートが中盤に差し掛かったあたりで、彼女の指が、ぴたりと止まった。


部室に、沈黙が落ちる。校庭の騒ぎ声まで、一瞬静まる。

……運動部の掛け声がまず聞こえ出し、壁の時計が時を刻むか細い音も耳に入ってくるようになった。


黒崎部長は、その切れ長の目を細め、先ほどまでとは明らかに違う光を宿した瞳で、紙面に印刷された文字の羅列を凝視している。

やがて、彼女はゆっくりと顔を上げた。その表情から、先ほどまでの侮蔑の色は消え失せていた。代わりに浮かんでいるのは、氷のような、静かな感情。


「……おい、凡俗」


「は、はい」


「これは、なんだ」


彼女は、レポートの一節を、トントン、と指で叩いた。僕には、それが断頭台の位置を示す仕草のように見えた。


「『天野光は、一見すると太陽のように快活なキャラクターを演じているが、その実、極めて繊細な自己評価と、他者からの承認欲求によって行動原理が規定されている』……。まあ、ここまでは凡百の人間観察でも至る結論かもしれん。だが」


彼女は一度言葉を切り、僕の目をまっすぐに射抜いた。その視線は、僕の内側にある何かを、見透かそうとしているかのようだった。


「『例えば、彼女がシュートを外した際に仲間に掛け声を求める声のトーンは、成功時よりもコンマ二秒ほどタイミングが早く、周波数も僅かに高い。これは、自身の失敗をチームの士気で覆い隠そうとする、無意識の防衛機制の表れである』……だと?」


黒崎部長は、感情のスイッチが切れたかのように、平坦な声でレポートの先を読み上げた。


「『また、彼女が笑顔でいる時、口角の上がり方には左右で常にコンマ五ミリほどの差異が生じている。これは、周囲の期待に完璧に応えようとするあまり、表情筋に無意識の緊張が生じている証左と考えられる』……」


読み終えた彼女は、ぱさりとレポートを机に置いた。硬質な音が、やけに大きく響く。


「……気味が悪い」


吐き捨てられた言葉は、いつもの罵倒とは全く質の違う、純粋な拒絶の色を帯びていた。


「凡俗。このコンマ何ミリが本当だとしてだ。君は、一体何者なのだ? なぜ、ただの一日で人間をここまで……そうだ、『解剖』できる? 何年も人間の行動パターンだけを観察し続けた精神科医のようではないか。……いや、それ以上に冷たい、無機質な視線だ」


心が、凍てつく。

分かっていた。僕のこの「能力」は、他者から見れば、理解し難い異常なものだということを。だからずっと隠してきた。平凡という仮面を被り、誰にも気づかれないように生きてきた。


それを、この人は、いとも簡単に見抜いてしまった。


「……昔、少しだけ」


僕は、ほとんど無意識のうちに、口を開いていた。


「物語の登場人物を、幸せにする方法が、どうしても分からなくて。だから、物語ごと……登場人物を『再構築』して、その仕組みを調べる遊びを、よくやっていたんです」


「……再構築、だと?」


「はい。キャラクターの言動を分解して、その行動原理を数式みたいに組み立て直す……。そうすれば、どこを直せばキャラクターが幸せになれるのか、分かるんじゃないかと思って」


我ながら、支離滅裂な告白だった。だが、それが僕の本質だった。僕の書く文章に「体温」がなかった理由。僕が、人間を正しく描けなかった理由の全てが、そこにあった。


黒崎部長は、しばらくの間、何も言わずに僕を見つめていた。その目に浮かぶのは、困惑か、嫌悪か、あるいは憐憫か。


やがて彼女は、ふう、と深く息を吐いた。そして、今までで一番冷たく、それでいて、どこか熱を帯びた声で、僕にこう言った。


「なるほどな。腑に落ちた。君は、そういう欠陥品だったというわけか」


彼女はすっくと立ち上がり、僕の目の前に置かれたレポートを再び手に取った。


「君のその気味の悪い観察眼。それを、なぜ自分の文章に活かさん? 君は世界を正確に見る『眼』を持ちながら、それを表現するための『言葉』を持とうとしない。……それは、ただの才能の無駄遣いだ。いや、使っていないのだから、はなから才能がないのと同じだ」


彼女は、僕の目の前にレポートを突きつけた。


「いいか、凡俗。私が最も嫌悪するのは、つまらない文章と、そして、与えられた才能を腐らせる『怠慢』という罪だ」


その瞳は、怒っているようにも、どこか楽しんでいるようにも見えた。


「君のその歪んだ眼で、もう一度世界を見てみろ。そして、私を退屈させないだけの物語を、書いてみせろ。……これは、命令だ」


それは、いつもの理不尽な命令だった。

けれど、僕の心臓は、あの11枚目の駄文を読んでもらった時以上に、大きく、そして確かに、脈打っていた。


僕の異常性を、初めて見抜き、そして「才能」と断じた、この人の下で。

僕の、本当の戦いが始まる。

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