第4話 太陽の引力
「人間を観察する」という課題は、想像以上に困難だった。
僕は翌日の昼休み、体育館の入り口に、亡霊のように張り付いていた。少しだけ開いた重い扉の隙間から、こっそりとメモ帳を片手に、コートで自主練習に励む一人の少女に意識を集中させていた。
観察対象、
同級生。同じクラスなのだから、その存在はもちろん知っていた。快活で、誰にでも優しい、いわゆるクラスの人気者。だが、今までの僕にとって、彼女は「その他大勢の同じクラスの人」という記号の一つに過ぎなかった。
黒崎部長に「人間を観察しろ」と命じられて初めて、僕は彼女という人間を、意識的に視界に入れたのだ。そして昨日、体育館で垣間見た彼女の笑顔は、確かに太陽のようだった。
ダンッ、ダンッ、とリズミカルなドリブル音。キュッ、と体育館の床を鳴らすシューズ。その一つ一つの気づきを、僕は必死にメモ帳に書きつけていく。だが、どう見ても、その姿は怪しい。天からの視点が僕にそう告げている気がする。黒崎部長の指令とはいえ、僕がやっていることはストーカー行為そのものだ。
その時だった。
彼女が放ったシュートが、リングに弾かれて、あらぬ方向へ飛んでいく。ボールは体育館の壁にぶつかり、バウンドを繰り返しながら、僕が隠れている入り口の扉に向かって、まっすぐ転がってきた。
まずい……、このままだと扉の間からボールが校庭に出ていってしまう、そしてもうひとつのまずい……、結構な勢いのまま、ボールは、僕のスニーカーのつま先にゴツッと当たって止まった。
僕は、時が止まったかのように硬直する。
「すみませーん! ボール……」
息を切らしながら入り口にやってきた彼女は、そこに佇む僕の姿を見て、ぱちくりと大きな瞳を瞬かせた。
「あれ……?」
気づかれた。終わった。社会的に殺される。
様々な最悪のシナリオが脳内を駆け巡る中、彼女は僕の顔をじっと見て、やがて、ポン、と手を打った。
「あ、ごめん! 確か、同じクラスの……文芸部の人だよね!」
彼女が、僕との距離を躊躇なく詰める。ふわりと、火照った肌の熱気と、石鹸の香りが混じった、陽光のような匂いがした。
「そっか、そっか! 文芸部の人だ! すごい、私、小説とか書ける人、めっちゃ尊敬しちゃうんだ!」
「え……?」
「だって、頭良くないとできないでしょ? 難しそうな本とかいっぱい読んでそうだし! あ、もしかして、今も何か創作のネタ探しとか?」
少し弾んだ息遣いで、彼女の言葉には一片の疑いも、侮蔑も含まれていなかった。ただ純粋な、100%の好意と尊敬。
いつも罵倒と否定の言葉しか浴びていない僕にとって、その肯定のシャワーは、あまりにも刺激が強すぎた。
「あ、いや、これは、その……」
「黒崎部長、元気? あの人、すっごい美人で有名だよね! ちょっと怖そうだけど、知的でカッコイイって、うちの部でも人気なんだよ!」
黒崎部長が、人気? 知的で、カッコイイ?
僕の知る、あの理不尽で傲慢な支配者と、同一人物の話をしているとは到底思えなかった。
「あまのー! そろそろ時間ー!」
コートのほうから、仲間らしき生徒の声が飛ぶ。
「はーい! 今行くー!」と大きく手を振った天野光は、僕に向き直ると、「ごめんね、引き止めちゃって! じゃあまたね、文芸部の人!」と言い残し、僕の足元のボールを拾って駆け足で去っていった。
嵐のような、一瞬の出来事。
僕はその場に立ち尽くしたまま、ポケットの中のメモ帳を握りしめた。
キャラクター・スケッチのための素材は、十二分に集まった。
だが、それと同時に、僕の心には大きな混乱が渦巻いていた。
月のように静かで、全てを凍てつかせる黒崎部長。
太陽のように眩しく、全てを照らし出す天野光。
僕の日常に、二つ目の天体が、現れてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます