忍び寄る影
(おや……?)
このところ、真之介は、
(おや?)にはじまり、(おや……!)に終わる一日が多くなった。もっとも、陽が落ちる頃合いに起き出し、夜明けまで寝ずの見廻りを続けているのだが、ある深更、
(あれは……)
一人はかよ、もう一人はあの琴絵にちがいなかった。勘は鋭いほうではない真之介だが、一度その目にした人物は輪郭が頭裡の奥底にしっかと刻まれ、たとえ薄闇のなかでもその形が人を特定化できる。おそらくは幼少期に
(かよと琴絵の二人は……あたかも姉妹のごとく……)
……に寄り添っている。だから真之介は声をかけることができない。
(まてよ……)
ここでまた予想だにしなかった想像が真之介の芯奥で拡がっていった。
(琴絵は藩公が束ねる│
それはあまりにも突飛すぎる連想であった。当初会ったかよやその父世之介は本人だったとしても、中途で御筆組の隠密たちと入れ替わったのではあるまいか。
……そんなことを真之介は考えている。
とすれば、この育種小屋自体が、技術を盗もうと世之介
そこまで思案が進んでいけばいくほど、谷崎家の寺田文右衛門の目論見、なにゆえわざわざ自分に小屋警護の依頼をしたのか、そこに御筆組の琴絵をつけたのか……その意図の本質が真之介にも浮かび上がってくるのだった。
(なんということだ……おれは……とんだ道化者だった……)
ことさらおのれを卑下する気はなくとも、最後はその一点にたどり着く。そしてふたたび悩みがはじまる。
(とすれば……本物の世之介父娘はいまどこにいるのか。かれらの悲願というものは、よもや見せかけではあるまい。にしてもだ、こんな手間暇かけて敵を
さらにもう一方で、大工の棟梁佐吉、そして実の娘ではないとしても育てあげてきた環のあの父娘の悲願……仇討ちを遂げさせてやりたいという気持ちも、真之介にとっては本物のおもいであった。しかも、盗賊
「おいっ、こそこそしていないで顔を見せろ!」
いきなり叫んだのは真之介である。
「琴絵、かよだろ?」
バタンと音がすると摺足で近寄ってきたのは、琴絵であった。
「声が大きい……!」
叱咤の声が真之介の目の前で響いた。小声である。
「や……」
影がそのまま立ち現れたかとみえたほど、目の前の琴絵は、黒ずくめの浪人の姿であった。頭巾で覆っているとはいえ瞳と鼻の形は紛れもない琴絵のものだ。
「お、おまえ……その成りは……」
「もっと低く……声も頭も……」
言われて真之介はその場にしゃがみ込んだ。
「襲撃は二日ののち……」
「ま、まことか!」
「明日になっても知らないふりをしていてくださいまし」
「やはり、かよもおまえの仲間の身代わりだな」
真之介がかまをかけると、琴絵がさらに鋭く睨んできた。篝火のあかりが琴絵の眼光により無気味さをあたえている。
「気づかないふりを……それがみんなのため」
「平野屋はどうなった?」
さらに真之介が訊いた。ここで引き下がっては怒りが鎮まらない。盗賊が根城にしている平野屋のことは、おそらく矢七の口から琴絵にも伝わっていると真之介は踏んでいた。悪逆無道の賊、そして環の親を殺した相手……のことは、たとえこの小屋の襲撃とは無関係だったとしてもかたをつけるべきだと真之介は叫びたかったのだ。
「それも知らないふりを……」
「ふん、おれに道化に徹しろと……?」
「はい」
「なにをっ!」
「低く低く……敵を斬らないでください。いや斬ってもいのちは奪わぬように願います」
きつい口調で事絵が繰り返し、そのまま中腰で
そのとき、
(おや……?)
と、真之介は小首をかしげた。
(からだが触れるほど近くに居たのに……一向に痒くならない……)
そのまま立ち上がり背筋を伸ばすと、真之介はいつもの巡回の足取りで歩きはじめた。そして、
(怒りのせいか……おれは怒っていたから痒くならなかったんだろう)
と、そんなことばかり考え続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます