それぞれの悲願

 西陽にしびの照り返しのあまりのまぶしさに、思わずてのひらでまぶたをおおった。

 早く早くが落ちるほど、四半刻しはんとき(約30分)でも、半刻はんときでも、いつもよりも早い明日がやってくる……はずだとは、毎夕、そうやって、

(落ちろ、落ちろ、よ、早く落ちろ!)

と、祈ってきたのだった。

 その一方で、

(でも、まだ、花が咲かないから……)

……むしろ明日という日が遅くやってくるほうがいいのかもしれないなどど、まったく真逆のことを考えたりするのだった。

 秋の訪れとともに、“世之介石竹せきちく”は一斉に咲き出したのだが、の父、世之介は、

「ことしもだめだったか……」

と、肩を落とした。藩公とのさまから命じられた真冬に咲く黒花のなでしこはまだ創出されてはいない……。

「でも、まだ、つぼみすらつけてないのに、どうしてあきらめるの」

 は二度も三度も抗弁する。すると、決まって世之介は、

「わしにはわかる、わかるんだ、聴こえてくるのだ……」

と、これまた同じことばを繰り返す。そのさまを見ながらも、真之介は口をはさまない、はさめないのだ。

 世之介が組紐で区切った空間には、足を踏み入るな、口出し無用……と厳命されていた。世之介の身分は職人農民であっても、藩公の特命での育種探究であるから、たとえ重臣であっても何もいえない。まして雇われ浪人の身である真之介は、世之介からみれば、

“邪魔ばかりして役に立たないやつ”

の一人なのだった。

 ……石竹(せきちく)の原産は中国。撫子(ナデシコ)とも呼ばれ、日本では平安時代に栽培されている。「枕草子」や「源氏物語」にも登場する草花で、かの「万葉集」には26首まれている。

 江戸時代、このナデシコ園芸が庶民の間で大流行した。俳人の小林一茶もこの花を特にでた一人である。

 

「ほかに手伝うことはないのか……?」

 ときおり真之介がに呼びかけても、

「どうぞご自分のお仕事だけをなさってくださいませ」

と、軽くいなされる。世之介は世之介で娘のとしか喋らない。だから小屋の周囲を巡り歩くことしか真之介はやることがない。

 小屋と呼び習わしてはいても、それは大屋敷といえる規模の敷地があって、住まうところは別棟にある。ほかに育種室、もとは茶室であったのを改造した保温室、堆肥保管庫、薬汁抽出庫のほかに、小さな窯まであった。

 その外周には、三重の垣根、巨石が配置されており、町奉行所から派遣された門衛までいた。さらに夜は外周に沿って松明がかれ、昼夜の別なく交替で奉行所の手代らが見回りを続けている。

「真冬に咲く黒い花のなでしこなど本当にできるのか……?」

 一人で敷地うちを歩きつつ、真之介はぼそりと呟く。自問自答といっていい。つぶやくことでさまざまな疑問を整理していくのだ。

 ……なでしこは秋の七草に数えあげられる。たまに春先にも花を開かせることがあるが、真冬には咲かない。

 世之介なりに寒さに強い原種の石竹せきちくと掛け合わせ、根気強く続けてきていたが、まだ冬に咲かせるのは無理のようである。 

「そもそも、なにゆえ黒なのか……」

 真之介はこうも呟いてみる。確かに雪の草原にぽつんと咲けば、黒の色彩はよく目立つ。このくにでは黒は忌み嫌われる傾向があるが、ことこの藪坂藩にかぎっては、黒は尊重される高貴な色であった。藩公とのさまの御先祖は、しん始皇帝しこうてい末裔すえ……といった伝承があったからである。 

 古代秦帝国の色は「黒」であった。

 鎧も旗も衣服も黒一色。

 これは五行説にいう水徳すいとくの王朝だと秦帝国はみずからを位置づけていたからで、水は、五色においては本来「白」なのだが、それを嫌って秦国では「黒」に置き換えたのだ。そして、季節は「冬」を示していた。

 藩公とのさまは、

〈真冬に咲く黒花のなでしこを造るべし……〉

と、世之介に命じていたのである。

 よしんば冬期に咲かなくとも、まずは黒花を……というのが、至上命令であった。

 隣接する二つの藩でも、いま藩の特産品の創出に力を注いでいて、世之介に負けじと育種を推奨したが、なかなかかたちにはならなかった。そこで自藩の富商を仲介人に立て、世之介に後妻を世話するとか、金品を与えるとか、

『こちらの藩に身を寄せれば、正真正銘の武士に取り立てて、育種奉行にしてやるぞ』

……などと、ひっきりなしに引き抜きの誘いがあとを絶たなかった。

 の母親は、産褥熱で逝ってしまい、この少女は母の顔は知らない。むしろ、父が育ててきた花々こそが、にとっては母の代わりのようなものであったかもしれない。

 世之介にしても、他藩から狙われるほどの技術保全のため、余人には一切手伝わせず、を助手として黙々と挑戦を続けてきた。

 すなわち、それこそが、藩公の悲願にほかならない。三年前、江戸城に登城したおり、たまりで、藩主たちが雑談で自藩の特産物について自慢し合っていたとき、

『真冬に咲く黒いなでしこ……を、近いうちに諸侯方しょこうがたにご披露つかまつろうぞ』

などと、つい大見得おおみえを切ってしまったのである。 

 ちなみに、江戸期、すでに二代将軍秀忠ひでただ公の頃から、人々の園芸への関心は高まっていった。秀忠公自身が、なによりも椿つばき愛好家で、またたくまに江戸市中の庶民の間でも椿の植栽が大流行したのだ。つまりは、それこそがいくさのない平穏な時代到来のあかしでもあった。

 それから数十年をたいまは、むしろ、藩財政立て直しのための地場産業の育成と、江戸や大坂の大消費地へ供給する藩独自の物産品の生産こそが、各藩に課せられた喫緊きっきんの課題であった。

 藩公とのさまは、それを

〈真冬に咲く黒いなでしこ〉

に賭けていたのである……。


「……悲願もいいが、思いの強さがほかの人を苦しめることもある」

と、珍しく真之介はある種の哲理のようなものを呟く。

「……他藩の密偵が世之介さんの育種技術を狙っているのなら、育種小屋は城内につくればいいものを……」

と、真之介の愚痴はとどまらない。

「それはそうですね」

 真之介の耳元で女人の声が響いた。艶めかしい声ではなく、むしろ乾いた語感がよけいに真之介の芯を揺さぶった。

 ……琴絵であった。

「おい、驚かせるなよ……それに、むやみにおれに近寄るな」

 二歩退しりぞいた真之介は、琴絵の顔を正面から睨んだ。農婦に扮している琴絵は露骨に口をへの字に曲げて、

「あら、そんなに毛嫌いされているとは存じませんでした」

「べつに嫌ってはいない……女に触られたりすると首と背中が痒くなって赤く腫れ上がるのだ」

「でもさんとは親しげにことばを交わしてましたよ」

「いや、構うな……と何度も釘をさされた」

「そうなのですか……それでは警護のお役目も果たせませんね」

 琴絵の口調はことさら真之介をなぶっているようにも受け取れるが、あるいはやりとりを楽しんでいるようにもみえる。

「それはそうと、前から何度もたずねていた答えをそろそろ教えてくれ」

「あら、なんでございましたでしょう?」

「おまえは誰に雇われたんだ? どの家老の組下だ? 永沼か中曽根か小泉か? あ、寺田翁が引き合わせたということは、谷崎家だから……永沼家老の配下なのか」

「あら、ほんとうに藩の事情に詳しいのですね」

 意外そうな視線を真之介に送ると、琴絵はしばらく唇を閉じてからおもむろに真之介を見上げた。

「そのどちらでもない……と申さば、信じていただけましょうや」

「ん……重臣の手先ではないと……? で、では、もしかすれば……御筆組おふでぐみ……!」

「ひゃ」と、琴絵は声なき声を上げた。驚いた表情を隠すことなく、

「そこまでご存知とは……!」

と、素直に認めた。

 御筆組とは、藩公直属の隠密組織である。藩がらみの数余の事件に巻き込まれるなかで、真之介はほんの一端を知ったにすぎない。

「やはり、そうか! な、おまえの仲間にという名の女はおらぬか?」

「は?」

「ふさ惠だ……若くて美しゅうある……」

「いまのいま、痒くなると申されていたその口で、女人のことをお訊ねなさるとは、真さまも隅に置けませぬ」

「いや、そうじゃない、本人が密偵だと認めていたんだ」

 するといきなり琴絵の表情がこわばった。眼光に厳しさをのせてながら、

「そのお話、詳しくお聴かせ願いましょう」

と、真之介に近づいた。慌てて間合いを取りながら、真之介は井戸場で顔を洗いたくなった。とはいえ、寒気が舞い込んで咳込みそうになり、真之介はぶるっとからだをふるわせた……。



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