第6話 喫茶店の開業
ある日、リディアとオスカーは、『市場調査』と称して、下町の
珈琲館も酒場と同様、女性だけでは入りにくい店だ。珈琲館は元々が女人禁制で近年は女性の入店も許されるようになったが、やはりリディアのような令嬢には敷居が高い。オスカーにエスコートされて恐る恐る入店する。
異国情緒を感じさせる内装の店内には紫煙が漂っていた。リディアはオスカーとテーブルに着く。注文すると、しばらくしてコーヒーが2つ運ばれてきた。
「コーヒ茶碗も、紅茶茶碗とほとんど同じですね」
黒いコーヒーは、受け皿に乗った取っ手のない茶碗に入っていた。周囲を見回すと、紅茶のように受け皿に移して冷ます者もいれば、そのまま机の上に置いて香りを楽しみながら友人と会話し、冷めた頃に飲む者もいた。
リディアも、そのまま置いて香りを楽しんだ。というか、彼女はコーヒーの香りは好きだが、苦味が苦手なのだ。その様子を見たオスカーは給仕を呼び止め、ミルクを注文した。
「ミルクを入れると飲みやすいですよ」
そう勧められて、リディアはコーヒーにミルクを入れた。
「美味しい」
コーヒーの苦味と酸味がまろやかになり、ちょうど良い温度に冷めて飲みやすくなった。茶碗を両手で支えて飲むリディアを見て、オスカーは微笑んだ。
(これってデートみたい)
ふとそんなことを考えたリディアは、慌ててその考えを打ち消した。オスカーにとってリディアは大事なお客だ。こうして一緒に珈琲館に行ってくれるのも、これが仕事の一環だからだ。
先日ついに『
(仕事じゃなくて、プライベートで酒場や珈琲館に行きたいって言ったら、一緒に行ってくれるだろか……)
そして、結婚を前提にお付き合いをしたいとオスカーに言ったら困らせてしまうだろうか。そう考えて、リディアは彼との結婚が難しいことに気付いた。
(お父様が許さないわ)
オスカーは、モリス伯爵の親類だが爵位はない。リディアの父親グレイ伯爵は、娘の結婚相手に貴族階級の男性を望んでいる。グレイ伯爵は差別主義者ではないが、身分の違いすぎる結婚は色々と難しいと考えていた。
(そもそも彼にはもうお相手がいるんじゃないかしら)
リディアは、コーヒーを飲むオスカーの顔をこっそりと見た。美形である。
整髪料で整えられた金髪、理知的な淡い緑色の眼、仕立ての良いスーツ。
オスカー・モリス、27歳。若くして自分の事務所を王都に構える弁護士。モリス伯爵の親戚。―――独身。
果たしてこんな良い男を周りの女が放っておくものだろうか。
もう心に決めた相手がいるけど、何らかの事情があって結婚できないとか……。
茶碗の中のコーヒーを見つめながらそのような事を悶々と考えていたリディアに、オスカーが声をかけた。
「リディア嬢?どうかしましたか」
「え?いえ、ちょっと考え事を」
「まさか新たな特許ですか?」
少し警戒した声でオスカーが訊く。このところ紅茶関連の特許の申請が続いて、本来の仕事である相続関連の案件が滞っているのだ。
「ええと、その、珈琲館のように紅茶を飲めるお店があったらなと思って」
「なるほど。紅茶は基本的に知人を自宅に招いて飲むものですから」
新たな特許ではないと知って、オスカーは安堵した。
「でも、自宅でお茶会するのって準備が大変で。こうして気軽にお店で紅茶が飲めたら良いなって思ったんです」
「珈琲館の主なお客は男性ですが、紅茶の店は女性のためのお店でしょうか。お茶会は女性が中心なので」
「男性も女性も気軽に入って来られるお店が良いと思います」
「それは良いですね。そんな店が近所にあったら僕も通います。そう言う店を作ってみては?」
オスカーにそう言われ、リディアは自分が店を?と思った。良いかもしれない。紅茶を飲める店がなければ、作ればよいのだ。
紅茶が飲める、男性も女性も入りやすい店。どんな身分のお客も大歓迎だが、メインターゲットは庶民階級。
紅茶だけではない。スコーンやサンドイッチのような軽食も出そう。お土産に紅茶の茶葉やティーバッグを売っても良い。店で使う器はもちろん、グレイ領特産の取っ手付きの茶碗。使いやすい新しい茶碗をこの店から広げていくのだ。
*****
オスカーから話が行ったのか、紅茶の店を出す計画は、あっさりと父親に認められた。リディアはオスカーの協力で商業地区の物件を廻って、店の候補地を探した。
店を借りる頭金は、慰謝料の残りで支払った。慰謝料でドレスを作る話はどこかに行ってしまった。父親は、夜会に婚活に行けとは言わなくなった。娘の結婚を諦めてしまったのかもしれない。こうして領地のために働いているので、実家に置いてくれることになったのかもしれない、とリディアは安心した。
グレイ領の窯では既に取っ手付き茶碗の試作が行われており、タウンハウスに試作品が届けられた。輸送中にいくつか取っ手が取れていた。どうしても取っ手部分は壊れやすくなるそうだ。
そうこうしているうちに茶碗とティーバッグの特許を無事に取得することができた。
*****
紅茶の店の開店準備に忙しいある日、リディアは久しぶりに友人のキャサリン・スペンサーを家に招いてお茶をした。本好き仲間の2人は、さっそく本の貸し借りを始めた。
「長い間お借りしてごめんなさい。この本すごく面白かった」
そう言って、リディアは、身分差ロマンス冒険活劇領地改革内政物語『新大陸より愛をこめて』をキャサリンに返却した。2人は本の感想を語り合い、リディアは自分の本をキャサリンに貸した。本のタイトルは『お飾りの妻は嫌なので新大陸に出奔します』。最近の出版界には空前の新大陸ブームが訪れているようだ。
2人はしばらく世間話をしていたが、やがてキャサリンは真面目な顔になって、小声で
「ところで、先日あなたが金髪の男性と街を歩いているのを見かけたんだけど……」
と言った。友人からの不意打ちに、リディアは食べかけのスコーンを喉に詰まらせそうになった。
「あれって、オスカー・モリスよね」
「彼を知っているの?」
紅茶を飲んでスコーンを流し込んだリディアが言った。
「ええ。彼は有名人よ。やり手の若手弁護士だし……ちょっと噂があって」
「噂?」
キャサリンは少し迷った末、噂について小声で話してくれた。
「あくまで噂よ。でも一部で有名な話だから、他の誰かから聞かされるかもしれないから先に言っておくわ。その、彼は裕福な弁護士で、美男で、伯爵家の親戚で家柄も良いわ。そんな彼が結婚しないのは、その、いわゆる、男性が好きなんですって」
キャサリンから噂について聞いたリディアは、驚愕した。驚愕したが、同時に(そういうことだったのか!)と納得した。
「ただ、これはある商家の令嬢が積極的に流した噂で、どうも彼に振られた腹いせでそんなこと言っているらしいの。だから信憑性は低いんだけど、社交界ではそういう噂がながれているってことは知っておいた方が良いと思って」
「ありがとうキャサリン」
「あと、こちらは信憑性が高い噂なんだけど、数年前に彼に何で結婚しないかと聞いた猛者がいたのよ。そうしたら、彼は『好きな人が婚約してしまった』と答えたのよ。こちらの方が真実じゃないかしら」
数年前に婚約した男性と聞いて、リディアはぴんときた。アーネストだ。親戚のアーネストがオスカーの想い人だったのだ。そう言えば、リディアが婚約していた頃、モリス家のタウンハウスを訪れると、オスカーを見かけることが何度もあった。リディアが見かけたオスカーは、いつでもアーネストと親しげに話し合っていた。その当時は単に仲の良い親戚だと思っていたが、ただの親戚にしては妙に距離が近かった……。
オスカー独身の謎が解けたリディアは、彼との恋愛が不発に終わったことにがっかりしつつも、まあ現実なんてそんなものよね、と思った。
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