第2話 慰謝料の使途


 話は、冒頭のモリス邸の庭のお茶会に戻る。


 良く晴れた5月の午後、藤や薔薇の咲き誇るモリス伯爵のタウンハウスの庭にはガーデンテーブルが並び、女性ばかり10人ほどの招待客が椅子に座って紅茶を楽しみながら談笑し、使用人がテーブルの間を移動して給仕していた。

 そんな午後のお茶会アフタヌーンティーの和やかな空気は、闖入者の大声によって破られた。


「リディア、君との婚約を破棄させてもらいたい!」


 庭に、アーネスト・モリスの声が響いた。談笑する声が止み、使用人が動きを止め、まるで時間が停まったかのように皆が凍りついた。


 その時、リディアは、ちょうどスコーンを頬張っている所で、大声にびっくりして喉に詰まらせ、しゃっくりを起こしそうになっていた。


 女性だけのお茶会に乱入して自分の前に立ちはだかる無作法な男が自分の婚約者で、彼の後ろに背後霊のように寄り添っているのがイザベラであることに彼女は気付いた。お茶会の準備にイザベラの姿が見えず、またサボっているのかと思っていたが……。


 リディアは、とりあえずしゃっくりと止めるためにお茶を飲もうと思い、茶碗に手を伸ばした――が、中身は空であった。


「君に非はない。悪いのはすべて僕だ!」

 アーネストがそう叫べば、彼の背後のイザベラが、

「いいえ、悪いのは私です。ごめんなさい、リディア様!」

と泣き叫ぶ。


 庭にいる人間全員が動きを止め、息をひそめ、リディアの反応を窺っていた。

 何か返事をしなければ、とリディアは思った。

 しかし今、口を開けば、しゃっくりがでてしまう。しゃっくりだけならまだ良いが、口の中のスコーンが飛び出して、この2人にかかってしまいそうだ。


「………」

 リディアは口を押え、『いかにも傷心です』といった表情でうつむいた。うつむきながら、テーブルを指先でトントンと叩き、お茶を淹れてちょうだいと給仕に合図する。しかし、主家の坊ちゃまの暴挙にあっけにとられていた給仕は合図に気付かない。


(お茶を!お茶をください!!)

 リディアは心の中で叫んだ。いっそ隣に座る子爵令嬢のお茶を奪って飲むべきかとリディアが悩み始めたとき、女性の金切り声が響いた。


「アーネスト!突然やってきて何を言うの!婚約破棄とはどういうことです!」


 アーネストの母、モリス伯爵夫人であった。

 助かった、とリディアは思った。皆の意識がモリス親子に逸れている隙に、呆けている給仕にもう1度合図を出して、お茶を淹れさせた。


「僕は、リディアと結婚することはできません!」

「なぜ!?」

「僕は、イザベラと結婚します!」

「だから、なぜなの!?」

「イザベラは、僕の子を身ごもっています!」


 衝撃発言に、モリス伯爵夫人が黙る。そして、バターン、と後ろにひっくり返った。

「母上!」

 精神的な負荷に耐えられなかったのであろう。夫人は気絶した。


 リディアは新しく淹れられた紅茶を茶碗から受け皿に移して冷まし、ぐいっと一気飲みした。しゃっくりが治まった彼女は、狼狽える使用人に、夫人を介抱し、屋敷にいる伯爵を呼ぶように命じた。伯爵に事態を治めてもらおうと思ったのだが、これは悪手だった。


「アーネスト!お前と言う奴は!」

 事情を聞いた伯爵はすぐに飛んできて、その勢いのまま息子を殴った。事態は混迷を深めた。

 吹っ飛ばされたアーネストが白薔薇の茂みに頭から突っ込み、イザベラが悲鳴を上げるのを、リディアは紅茶のお代わりをして胡瓜のサンドイッチを食べながら眺めた。


 もはや事態は彼女の手を離れ、できることは敗戦処理あとしまつしかない。せめて好物の胡瓜を食べて英気を養おうと思ったのだ。


*****


 その後は、双方の弁護士立会いのもと両家で協議を進め、モリス家長男アーネストとグレイ家次女リディアの婚約は破談となった。モリス家はアーネストの不貞を認め、高額な慰謝料を支払った。


「―――以上が協議の結果だ。浮気相手の女中に暇を出して『何事もなかった』ことにして婚約を続けると言い出すかと思ったが、お前たちの婚約破棄騒動はお茶会の参加者によって面白おかしく噂されている。今更隠し通すことはできないと判断したのだろうな。案外あのバカぼんは、それを狙って大勢の前で婚約破棄宣言したのかもしれんが」


 父親の執務室で、協議の結果報告を聞きながら、リディアはその通りかもしれないと思った。

 『脳筋』と揶揄されることの多いアーネストだが、全くの考えなしというわけではない。大勢の前で婚約破棄宣言したのは、イザベラと子供を守るため、そして道化を演じることで自分が悪者でありリディアに非がないことを明らかにするためだったのであろう。


(そうだとしても、事前に相談してほしかった……)


 あのお茶会以来、リディアは婚約破棄された令嬢として有名になり、パーティーに行けば、同情の目で見られて腫物のように扱われたり、逆に好奇心旺盛なマダムに捕まって根掘り葉掘り聞かれたりと妙な注目を集め、彼女はすっかり社交嫌いになっていた。


「アーネストはイザベラと結婚してモリス家を継ぐのでしょうか」

「……ここまでやらかしたアーネストが伯爵になるのは難しいだろう。奴は一人息子だから、遠縁の者に爵位を譲ることになるかもしれん。だがもうお前には関係のないことだ。奴らのことは忘れなさい」


 グレイ伯爵は娘にそう言うと、今回手に入った慰謝料のうち、リディア個人の取り分の額を伝えた。


「その金で、ドレスでも買いなさい」

「ドレスですか?」

「そうだ。今回の破談は残念だったが、すぐにでも次の婚約者を見つけなければならん。新しいドレスで来月の夜会にウイリアムと一緒に出席して未婚の男を捕まえてこい」

 ウイリアムとは、リディアの2つ年上の兄である。


「あの……わたし今、『婚約破棄サレ令嬢』と社交界で噂されていて、とても居心地悪いんですが……」

「それがどうした。お前に非はないのだから堂々としていろ。それとも何か?お前は一生社交に出ずに家に引きこもるつもりか?」


 それ良いかもしれない、とリディアは思った。領地の片隅にでも置いてくれないかしら。そう思ったのが顔に出ていたのか、父親は娘を睨みつけた。


「そんなことは私が許さん。ウイリアムの縁談にも障るだろうが。結婚せんのなら、家庭教師の職でも見つけてこい!」

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