第6話 安政の大獄
日本の事実上の中心、江戸。
そこに座するは武家の棟梁、徳川宗家が当主、征夷大将軍だ。だがその権威は危機的状況に陥っている。将軍、徳川家定は病弱であり、政務能力がない。代行して政務を執り行うのは老中、阿部正弘であったが彼は急死。
後継のいない家定の地位を継ぐのは誰なのか。これがこの時期の政治の最大議題だった。
候補は二人。
一人は紀州藩より徳川慶福。将軍家と血筋が近い。権威は抜群であり、彦根藩主・大老の井伊直弼と会津藩主・松平容保、そして大奥勢力が彼を推す。彼らを「南紀派」と呼ぶ。
もう一人は御三卿一橋家、水戸藩より一橋慶喜。神君家康公の再来とも称される俊英だ。混迷を極める政局を打開するべく血統より能力を優先すべしと考える雄藩、薩摩藩主・島津斉彬と土佐藩主・山内容堂、親藩きっての開明派、福井藩主・松平春嶽、そして慶喜の父、先代水戸藩主、烈公・徳川斉昭が派閥を形成。これを「一橋派」と呼ぶ。
大老、井伊直弼の決断力は尋常のものではなかった。英邁なる藩主が形成する一橋派に対して先手を打った。一橋派を有力人物、ひいては直弼に抵抗する者たちを瞬く間に粛清した。
「……井伊の赤鬼は畳の上では死ねませぬぞ。元よりそれも覚悟の内かもしれませんが」
福井藩士、橋本左内。松平春嶽に見出された若き天才だ。この時すでに異国との国力の差を悟り、開国路線を主張した。後の世において左内の主張が正当なものであったことはいうまでもなかった。
「この期に及んで将軍の座をめぐって日本人同士で殺し合い、か。西郷君、君は早死にするなよ」
橋本左内、この後に斬首刑を宣告される。元々は遠島、即ち島流しという判決だったが直弼の鶴の一声で死刑となった。
左内は遠い西南の国の、互いに敬愛し合い能力を認め合う親友を思い浮かべながら散った。
「先代水戸藩主の儂が謹慎じゃと⁉」
先代水戸藩主、徳川斉昭とて直弼の粛清の例外にはならなかった。烈公とも称された男だ。その名の通り烈しく怒り狂った。
「井伊の小僧がッ! 己が日本の王にでもなったつもりかッ!」
悔し涙が頬を落ちる。斉昭の最後の頼みは息子、慶喜だけだった。
「七郎麻呂、我ら父子の無念、いずれ果たそうぞ!」
烈公、徳川斉昭はその後、生きる気力が枯れていったかのように病没した。だが彼の烈火の意志は息子へと確かに受け継がれていた。
「父上、我らはまだ機が満ちていなかった。だがまだ終わったわけではない」
一橋慶喜。後に江戸の世に幕を引く男は静かに呟く。
「全ては徳川の御家のため、そして国家のためだ。私に一片の迷いもありはしない」
大老、井伊直弼。後の世に幕末きっての暴君として名を残す男。しかしそれは真実の姿なのか。
「全ての悪名は私が背負う。それで何の問題もない」
彦根藩主、井伊直弼は領民より慕われる名君としての姿があることはあまり知られていない。民に温情と慈悲を与える仁者にして、目的のためとあらばどんな手段も厭わない。この時より百年前のフランス、革命の時代に恐怖政治を敷いたロベスピエールも同様に清廉な弁護士という二面性を持った男だったという。彼と同様に反対勢力に弾圧を行った直弼には類似した面があった。
「直弼様、長州藩に不穏なる男ありとの事。老中の間部殿を暗殺せんと放言しているとか」
その粛清の刃は長州にまで伸びようとしていた。
「松陰先生が捕縛されたか……」
吉田松陰捕縛。この報せは長州全土に伝わった。
松下村塾の塾生たちはいずれはそれが起こるであろうことを悟っていた。
「市ちゃん、どうするよ」
「ヤジ君、松陰先生は江戸に送られるそうだ。おそらくは生きて帰ってこないだろう」
江戸という地名を聞いて思い出した名前が市之丞にはあった。
「高杉さんだよ! あの人は今、藩命で江戸に行ってる。あの人なら先生と会えるかもしれない!」
「手紙を送ってみるか……。あの人がいう事を聞くかわからねえが……」
即座に弥二郎は江戸に遊学している松下村塾の双璧が一人、高杉晋作に手紙を送った。内容は以下の通りだった。
「高杉さん。松陰先生が幕府に捕らえられた。おそらく牢は伝馬町。松陰先生と面会はできないでしょうか?」
早馬で送られた手紙は数日で江戸の晋作の元に届いた。
「先生が捕まったか。まあそうなるだろうなァ……」
その表情は神妙だった。普段の暴れん坊の顔ではない。
師の末路を察しているのか、あるいは捕らえられた愚かさに落胆しているのかは本人にしか知ることは無い。
「伝馬町の牢屋敷ね……」
その翌日に晋作の足は件の牢屋敷に向いていた。
役人に罪人との面会をしたい旨を伝える。長州藩の藩命と適当に嘘を吐いたらすんなりと牢へと通された。
「……晋作君かい」
「先生、随分と往生際がいいじゃねェか。先生ならもっと抵抗して長州で戦でも引き起こすかと思ったが」
役人に聞かれるであろうに、全く遠慮のない晋作に獄中の吉田松陰は笑った。
「国の中で戦を引き起こすなんて国益にならないよ。それに我々の敵は幕府なんかじゃない。もっと言えば異国ですらない」
「なら敵は誰なんだ? 松陰先生、アンタは何と戦おうとしてたんだ?」
松陰は地面を指差した。
「時代だ。今、此処、この時代だよ」
「時代?」
「誰も彼も思い違いをしている。誰が敵だ、彼が敵だ、違うだろう。国を富ませ強くする志すら持てないこの時代の空気こそが打ち破らなければならない敵だ」
松陰の言葉に晋作は目を見開いた。
「その原動力となれるのならば、私の首なんて即座に差し出そう」
その目は諦念の目ではなかった。確かにやってくるであろう新たな時代への確信と期待。死にゆく者の目には見えなかった。
「何だよその目は。先生アンタ死ぬんだぜ?」
晋作の心に何か燃えるようなものを感じていた。名家に生まれながら素行の悪さ故に誰からも認められることは無かった。父からは何度怒鳴られた事か。そんな中で唯一、自身の才能を認めた師が満ち足りて死のうとしている。
自身は今死ぬとして喜んで死ねるのか?
心より笑みを浮かべて死に瀕する覚悟があるだろうか?
「もうあの人は誰にも止められねェ。そして俺自身も誰も縛ることなんざできねェ」
元来、人は自由だ。
それを金、地位、身の安全などを抱えるがために自由を捨てる。ならばそれさえも捨ててしまえば誰も自分を支配することなどできない。
「俺が自由な国を創ってやる。生まれで何もかも決まるようなクソつまらねェ世を、馬鹿みてェに混沌として自由な、おもしろき世にしてやる」
偉大なる師の、生命をかけた最後の教えは幕末の動乱に一人の
幕末屈指の狂気にして天才、後に維新回天の原動力として旧き時代を壊した男はこの時に誕生した。
安政六年、十月。
冬の空気が日本を包み、肌寒くなってきた季節に一個の巨星が落ちようとしていた。だが、その巨星は強烈な光と熱を放ち爆散しようとしていた。
巨星は死して新星の糧となる。
「罪人、吉田松陰。何か言い残すことはあるか?」
「では一つ、辞世の一首を」
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂
この一首が吉田松陰、最期の言葉となった。
(さて、後は君たちの時代だ)
武蔵の野辺に朽ちた身は、遥か西の地にて英雄を生んだ。彼らの国を変えんとする大和魂が時代を変える力となっていく。
松下村塾主宰者、吉田松陰、享年二十九歳。
若き教育者にして思想家、そして革命家は新時代を確かに目にして刑場にて命を散らせた。
小ナポレオン-山田顕義・幕末戦記 白鯨 @momochan919
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