第5話 君子勿素餐

 生命の本質とは炎に例えられる。それは発火すれば燃料を尽くし灰と化せば消える。人の生涯というのもそれと同じではないか。意図せず突然に世に現れて最後は終わる運命だ。この世に終わりのないものは存在しない。生ある者は必ず滅ぶ。

 だが人間は知恵を得た。自らの生き方を選択する自由を生物の中で唯一手に入れた。ある者になりたい、ある生き方を完遂したい、世に名を残したい。人はそれを志と名付けた。

 彼、吉田松陰はその志に殉じる生き方を選んだ男である。


「私を止めにきたのかい。市之丞君、弥二郎君」


 いつも通りの穏やかな声色、表情。だがその眼光は研ぎ澄まされた刃のようで剣呑だ。


「僕にはわかりません……。幕府の老中の間部を殺めたとして、それが不朽の行いとなるのですか?」

「松陰先生、無茶な真似はよしてくれ! 命がいくつあっても足りねえよ!」


 二人の弟子、山田市之丞、品川弥二郎両名が懇願する。命を無為に投げ捨てるな、と。怒りに身を任せて身を滅ぼすほど愚かではないはずだ、と。


「……私は無為に死ぬつもりはないよ。それに志ある者は常に死を隣にするものだ」

「老中、間部詮勝を葬る手段があるのですか?」

「間部は帝に申し開くべく上洛をするだろう。そこを襲撃する」

「馬鹿な……。そんな作戦、成功する目算など皆無であることは先生自身よくわかっているはずだ!」


 幕府の政権中枢に立つ人間が何の護衛もなく都へ赴くこと自体考えられず、もしも暗殺が成功したとして長州藩は日本全土を敵に回す戦を強いられる。その結末は長州の焦土化であることは明白だった。


「先生、殿様がそんなの認めないだろ。尻尾切りにされるのがオチだぞ!」


 長州藩からしても松陰は厄介者だ。一度は幽閉して本人の能力と功績を鑑みて釈放されたものの、江戸幕府に対して叛逆を起こすような真似はもはや擁護できる領域を超えている。

 長州藩からすれば罪人として幕府に突き出して貸しを作る方が合理的なのだ。松下村塾でも常識人寄りである弥二郎は藩の行動が容易に想像できた。


「弥二郎君の指摘は正しいだろう。だが時として愚かであろうと行動を起こさなければいけない時がある」

「今がその時、そう考えているのですか?」


 市之丞は師の覚悟はもう翻ることが無いことを悟る。彼の目に宿るのは殺気ではないと知った。あれは死気、死を前にして何一つ迷いを持っていない人間の目だ。覚悟を固めた人間を止める術はこの世に存在しない。


「そこまで、自らの命を懸けるのは何故ですか?」


 松陰は懐中から扇を出す。扇にさらさらと淀みなく筆が走る。そして扇を市之丞に差し出した。


「立志尚特異 俗流與議難 不思身後業 且偸目前安 百年一瞬耳 君子勿素餐」


 それは漢詩だった。その意味は「人と異なる志を持つことを恐れるな。俗論に惑わされるな。死後のことに惑わされるな。目先の楽は気休めにしかならない。百年は一瞬だ。君たちは無為な時を貪ってはならない」だ。

 この詩を読み通した時、市之丞は松陰の教えの真髄を理解した。市之丞の目の色が変わった様子を見て松陰はようやく笑みを浮かべた。


「そうだ、そうだよ市之丞君。命の長さなど関係ないんだ。命はどう燃やすかが大切だ」

「先生、何故この教えを僕に? どうして久坂さんでも高杉さんでもなく僕に教えたのですか?」

「君は晋作君、玄瑞君に才は劣るかもしれない。しかし君はその天才たちから学び取ることに長けている。伸びしろは彼らに負けていないよ」


 松陰は市之丞の強みを出会った時から見抜いていた。他者の強みを察し理解する能力。相手を知ろうとするその能力は松下村塾の俊英たちと比べても遜色のない稀有な才だと見抜いていた。


「そして弥二郎君、君の人柄は多くの人から好かれるものだ。晋作君も玄瑞君も隔絶した天才故に人の心を察することが不得手だ」

「先生……、それは……」


 まるで松陰先生の仰っていることは遺言だ。その一言を弥二郎は言えなかった。


「塾でも一番年下の君たちにはどうしても伝えたかった。新しい時代を創るのはいつだって若者だ」


 松陰の表情は晴れやかだ。言いたいことは全部言えた。そういう顔だ。


「ありがとう。今日は話せてよかったよ」


 もう二人は師に何かを言うことはできなかった。



 

 萩城下、茶屋で市之丞と弥二郎は休んでいた。しばし二人は無言だった。


「先生、あれはもう止まらないな」

「そうだね」


 空気がずっしりと重い。


「幕閣では大老の反対派が次々と処罰されてるらしい。おそらく松陰先生も処罰対象にされるぞ」


 大老、井伊直弼による粛清はこの頃より始まりを見せる。日米修好通商条約の反対派、直弼の政敵にあたる親藩水戸藩の御曹司、一橋慶喜に連なる一派が処罰されているという。


「僕は思うんだ。松陰先生は自らの死を以て松下村塾の塾生を、いや日本中の志士を目覚めさせようとしているのではないかと」


 蒲公英タンポポは枯れて綿毛と化し、その種を周囲へと振り撒く。松陰もまたこの蒲公英のように自らの血で国を変える英傑たちを生み出そうとしているのではないか。


「一死を以て万民を覚醒させる、か」


 あまりに凄絶な覚悟。師は弟子たちにこれほどの覚悟を求めているのか。不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。この言葉は決して例え話でも偽りでもなかった。


「市ちゃん、もし死んで事を成せるとしたら躊躇なく死ねるかい?」

「……わからない。けれどもこれだけは松陰先生の教えとして理解できた。生きて、生きて、戦い抜いて悔いなく死ぬ。死後のことなんて死んでから考えればいい」

「……気付いてるか? 市ちゃん、恐ろしい目をしてるぜ」


 弥二郎は市之丞の中に芽生えた、あるいは師から伝染した狂気をその瞳に見た。


「俺はそこまで覚悟が決まっちゃいない。松陰先生からしたら出来の悪い生徒だろう」


 だが、と弥二郎は呟く。


「俺はあの塾が嫌いじゃないんだよ」


 弥二郎は察していた。これから時代が荒れることを。そして吉田松陰の薫陶を受けた塾生たちは命懸けで戦うであろうことを。


「友達が死ぬところなんか見たくないんだよ。もしお前が戦に出るというなら、俺もついていく」

「ヤジ君、剣術の覚えあったっけ」


 一応は市之丞は柳生新陰流を学んでいる。剣の腕なら実は弥二郎より上だった。


「それを言うなよ! 人手は多い方がいいだろ?」

「……そうかもしれないね」


 市之丞は頬を緩めて笑った。

 この時から数カ月後に吉田松陰が再び野山獄、牢獄に収監されたという情報が長州の全土に広がる。

 松陰にとっての運命の時、不朽を成す時は着実に近づいていた。それは後の世で幕末と呼ばれる激動の時代が始まったことを告げる狼煙でもあった。

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