竹の子

をはち

竹の子

元暦二年、春。


壇ノ浦の海は、平家の栄華を赤く染めて、その全てを呑み込むと、


波濤に散った武者たちの叫びは、泡沫と消えた。


だが、運命の刃を逃れた者もいた。


平家の落人たちは、傷だらけの体を引きずり、山野の奥へと消えた。


その多くは落ち武者狩りの餌食となり、無念の断末魔を土に刻んだ。




遠く、壇ノ浦から隔たった山間に、竹林に抱かれた村があった。


タケノコの収穫と竹細工で細々と暮らす村は、元暦二年の春、裏年を迎えた。


竹は実らず、土は痩せ、飢えが人々の目を曇らせた。


そこへ、平家の落人、五十人あまりが迷い込んだ。甲冑は錆び、目は獣のように怯え、かつての威光は影もなかった。


村人たちは囁いた。


「こやつら、生きていても我らの腹は満たさぬ。」


夜、村長の家で密議が交わされた。


生きるための罪である。毒を仕込んだタケノコ汁が、粗末な膳に並んだ。


武者たちは知らずに汁をすすり、笑い、故郷を語った。


やがて、歓呼の声は苦悶の叫びにかわり、一人、また一人と倒れた。


村人たちは無言で身ぐるみを剥ぎ、遺体を刻み、竹の根元に埋めた。


血は土に染み、竹の根がそれを貪った。


だが、村人の一人、若い娘・志乃は、毒を盛る手を止めた。


武者の子が、母の手を握る姿に、亡魂のような母の顔を重ねたのだ。


彼女は毒を薄め、せめて子だけでも助けようとした。


翌朝、子の亡骸が竹林に転がっていた。


薄めた毒では、苦しみを長引かせただけだった。


志乃の慟哭は、竹林の静寂に呑まれた。


その夜、竹林の奥で何かが蠢き始めた。土の下で、脈打つような音。


平家の家紋が刻まれた布切れは、竹の根に絡み、闇に沈んだ。




現代、春。


町の外れに、誰も近づかぬ竹林がある。


黒々とした孟宗竹が陽光を遮り、湿った土に青臭さと鉄の匂いが漂う。


タケノコが豊富だと囁かれながら、誰も足を踏み入れない。


祖父は目を伏せて言った。


「あの竹林は、平家の落武者が討たれた場所だ。血と怨念が土に染み、竹が異様に育つ。


背中に人の顔を宿した虫が生まれた――平家蟹のようにな。」


祖父の足には、竹林で負った古傷。タケノコを掘った代償だと、祖母が囁いた。


俊、18歳。高校生で、町の料理屋でバイトをしている。


影が薄く、目立つこともない。だが、清香は違った。


彼女だけは「俊くん」と呼び、柔らかな笑顔で接してくれる。たったそれだけで、俊の胸は熱くなった。


清香は16歳。シングルマザーの母は難病で、彼女は学費と妹たちの生活費を稼ぐため、複数のバイトを掛け持ちする。


笑顔の裏に、疲れと強がりを隠している。


ある日、店の裏で清香が母と電話で話す声を聞いた。


「お母さん、店が閉まるかもしれない。でも、私、なんとかするから。」彼女の声は震えていた。


その年、タケノコは凶作だった。


料理屋の店長は苛立ち、料理長は仕入れに頭を抱える。


「旬のタケノコが出せなきゃ、店の看板に泥だ。」


俊は思った。清香を楽にさせたい。彼女に笑っていてほしい。


祖父の話――竹林のタケノコ、怨念の虫――は頭にあったが、清香の疲れた笑顔を思い出すと、怖さは消えた。


「タケノコ、僕に任せて。」店の裏で、清香に大口を叩いた。


彼女の驚いた目と、頬の赤みが、俊の心を駆り立てた。


夕暮れ、鍬を肩に担ぎ、俊は竹林へ向かった。


入り口は寂れた畦道の先。


細い竹が絡み合い、獣道すら見えない藪を分け入ると、汗と土に、腐った魚と鉄の匂いが混じる。


空間がない。


こんな場所にタケノコが生えるはずがない――そう思った瞬間、視界が開けた。


竹の壁に囲まれた円形の空地。直径50メートルはあろうか。


中央に、苔むした楕円形の石。墓石のようだ。周りを、規則正しくタケノコが取り囲む。風はなく、静寂が耳に痛い。


「こんなの…ありえない。」呟いた声が竹に反響した。


鍬を入れると、土が弾け、立派なタケノコが現れた。


笑いが漏れる。これなら清香に持って帰れる。


二本目に鍬をかけた瞬間、異変を感じた。タケノコの表面が脈打つ。


指先に震えが伝わる。嫌な予感はしたが、清香の笑顔を思い出し、鍬を振り下ろした。


ぐちゃ――


黒い液体が飛び散り、顔にかかった。


腐った魚と鉄の異臭。タケノコの断面がビクビク動き、黒い液体を噴く。


足のような突起が蠢き、土から黒光りする体が這い出た。


ゴキブリだ。


手のひらより大きい。背中に、人の顔のような模様。苦悶の表情を湛える。


周囲を見遣れば、「タケノコ」と思われた半分が、黒い腹部を覗かせる。


奴らは土中に潜り、腹部をタケノコに擬態していた。


竹林がざわついた。


無数のカサカサという音。笹の葉と相まって、心を掻きむしる。


「…ハイルナ…」


中央の石が動いた。石だと思っていたソレは、巨大なゴキブリだった。


背中に、平家の家紋のような模様。口を開き、低い唸り。


「…カラダオイテケ…」


周囲のゴキブリが共鳴する。頭に響く声。


俊の脳裏に、祖父の話が蘇る――平家の落人を騙し、殺し、身ぐるみを剥いだ村。


足首に激痛。小さなゴキブリが噛みつき、黒い液体を注入してきた。


熱が広がり、視界がぼやける。膝から崩れ、耳元に無数の足音が響く。


「清香…」彼女の笑顔を思い出した。彼女のために来たのに。


だが、闇の中で、別の声が響いた。女の声。悲しみに震える。


「…ゆるして…」


志乃の声だった。彼女の罪、子の死、竹林に沈んだ悔恨。


俊の胸に、彼女の記憶が流れ込む。村人の裏切り、落武者の絶望、竹の根に絡む血。


俊は気づいた。この竹林は、怨念の墓だ。


志乃の仏心が、呪いを生んだ。


彼女は子を救おうとしたが、毒を薄めたことで、怨念を永遠に土に縛りつけた。


「…ゆるして…」声が重なる。


俊の体が軽くなる。ゴキブリの群れが離れ、竹林が静寂に包まれた。


中央の石――巨大ゴキブリ――が、ゆっくりと土に沈む。


俊は立ち上がった。


手に、タケノコ。だが、それは脈打たず、ただの土の恵みだった。


数日後、料理屋にタケノコが届いた。


立派で、新鮮。清香は厨房でそれを見つめ、笑顔を取り戻した。


店は再開し、彼女の負担が軽くなった。


俊は竹林のことを話さなかった。誰にも言えなかった。


清香が「俊くん、すごいよ」と笑うたび、胸が締め付けられる。


竹林は静かに、次の訪れを待つ。だが、俊は知っている。


志乃の声が、呪いを解いたのだ。彼女の悔恨が、竹林に一瞬の赦しをもたらした。


タケノコの表面に、かすかな模様。人の顔のような影は、もう見えない。


だが、俊の夢には、時折、竹林の女が現れる。


「…ゆるして…」


彼女は笑う。清香の笑顔に似て、穏やかに。【完】

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竹の子 をはち @kaginoo8

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