再交渉

アリスは胸の奥に熱を抱えたまま、ローワンの前に立った。

「ジョリンの治療を見ました。あなた方の医療技術は、これまでノクティスでは救えなかった命を救える。私たちはその代わりに、持てる医療資源と技術を共有できます。双方に利益があります」


ローワンは静かに頷くが、視線は揺れない。

「興味深い。しかし――それでは承諾はできません。我々が最優先すべきは医療の発展ではなく、この都市の防衛と維持です」


その言葉はあまりにあっさりとしていて、壁にぶつかったような衝撃があった。アリスの胸にこみ上げた反論を、セリンの低い声が押しとどめる。

「ならば、こうしましょう」


ベテラン外交官の目は冷たくも確信を帯びている。

「ノクティスは外壁修復に使える超耐熱・耐腐食複合材を量産できます。さらに、長期自立型空気再生ユニットの小型版も提供可能だ。これなら、天蓋や居住環境の維持コストを大幅に下げられる」


ローワンの眉がわずかに動いた。セリンは間を置かず、さらに一手を打つ。

「加えて、地下深くで採掘される希少鉱物――高密度のエネルギー源になる。これらを正式な協定のもとで提供すれば、ソリヴァールの長期安定性は保証されるはずだ」


室内の空気がわずかに変わった。ローワンは指先で机を軽く叩き、長く息を吐く。

「……医療協力を含む包括協定としよう。だが、その技術と資源は段階的に受け渡してもらう」


アリスはほっと息をつき、セリンに短く礼を送った。交渉は成立した――少なくとも表面上は。


会談後、回廊を歩くローワンがふと問いかける。

「ここに来るまでに、何か見なかったか?」

「森で……奇妙な生き物を。四足で走るのに、手のような前肢を持っていました」アリスが答える。


ローワンは短く沈黙し、低く言った。

「グレイランナーだな。外界で独自に進化した生物だ。人間では太刀打ちできない。しかし、モンテラでは“ドリヴァー”と呼ばれる家畜化に成功した亜種がいると聞く。あれを用いれば、広域移動や運搬が可能になる」


セリンがわずかに眉を上げる。

「つまり、モンテラとの外交が……」

「容易にはいかんが、価値はある」

ローワンの声は淡々としていたが、その奥には計算された熱が潜んでいた。


***


その晩、宿舎として割り当てられた上層の簡易区画で、アリスは仲間たちと向き合った。


「これで……道が開ける」アリスは自分でも驚くほど確信に満ちた声で言った。

「ソリヴァールの医療は、私たちが“救えない”と判断した命を救える。これまで諦めてきた人たちを――生かせるんです」


エランは腕を組み、ゆっくりと頷いた。

「理屈は分かる。だが、それは医療資源の配分を根本から変えることになる。ノクティスの計算式に、もう“死”を前提とする項目はなくなる」


セリンは静かに言葉を継ぐ。

「変化は必然だ。交流すれば技術も思想も混じる。だが、それが進歩か混乱かは、我々の舵取り次第だ」


しかし、マーレンは険しい目でアリスを見た。

「命を無制限に救うことが本当に善なのか? 資源を分け与え、弱者を抱え込めば、社会は長く持たない。ノクティスはそれを避けるために今の制度を築いたんだ。外のやり方は、ただの甘えだ」


その言葉に、空気が重くなる。

アリスは黙って視線を落としたが、その胸の奥の炎は消えなかった。

――甘えじゃない。これは未来だ。

この技術と思想を持ち帰れば、変えられる。救える命がある。


外の都市での初めての夜、ノクティスとソリヴァールの価値観の隔たりは、光と影のようにくっきりと浮かび上がっていた。

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